前編部分の馬場・猪木のデビュー戦の裏事情は門茂男「ザ・プロレス365」「門メモ」より抜粋し再構成してお届けした。このデビュー戦での門茂男氏の考えでは、馬場は片八百長で勝たせてもらったことを、この書物(ザ・プロレス365)が発刊されるまでは知らず、自分の実力で勝ったと思い込んでいたという。
このデビュー戦から8ヶ月後の昭和36年(1961年)5月25日富山市立体育館で馬場vs猪木の初対決が行われ、羽交い絞め(フルネルソン)9分25秒で馬場が勝利した。この時の猪木の率直な感想が「門メモ」には残されていた。
「この男と組み合った僕はサイズの違いをヒシヒシと感じた。それに思っていたよりリーチもあり、足も強かった。そして、彼は重かった(猪木78㎏馬場95㎏)…」と語り、敗戦の悔しさで眠れなかったと結んでいる。以降、馬場vs猪木戦は16回行われ馬場の16勝0敗という記録が残っている。この内、何試合がセメントであったのかは不明で、馬場、猪木共に語ることはなかった。馬場が鬼籍に入った今となっては、真実は猪木の回顧録を待つしかないようだ。
当時、日プロ4羽カラス(馬場、猪木、大木、マンモス鈴木)として注目を集めていたが、実際は馬場一人だけが月給5万円(後に3万円に格下げ)をもらいアパート(川崎市・新丸子)住まいという特待生扱いであった。他3人は合宿住まい無給(小遣い)という格差待遇であった。
力道山はどうしてこうした差別待遇を処したのか? ジャイアンツの選手だったとは言え、万年2軍選手で1軍での通算成績は3試合0勝1敗と、とても誇れるものではない。しかも解雇(自由契約)され力道山に拾われたも同然の境遇であった。
ただ唯一とも言える他3人にはないもの、それは2メートルを越すタッパ(身長)であった。これはどんなハード・トレーニングを積んでも決して得ることの出来ぬ天性の「武器」であった。
野球界でも2階から投げ降ろす速球に期待してスカウトしたわけであったが、ボールにスピードが伴わず期待外れに終わってしまった。だがプロレスでは違った。ただ立っているだけで注目を浴び観客が入った。
幼小の頃から身長はコンプレックスであった。服も靴も既製品はなく母親手作りの褞袍を着て欠けた下駄か裸足で家業の八百屋でリヤカーを引く毎日であった。だがプロレスはコンプレックスが武器になった。他人との差別化、個性を磨こうと日夜必死の選手たちをよそ目に、嫉妬と羨望の目で他レスラーから見られていることも痛いほど分かった。
馬場はその存在だけで脚光を浴び観客を集めた。すなわちスター(ビッグマネー)を手にすることができる条件を生まれながらに有していたのであった。リング上の強さよりも優先される必須事項であった。
この時代(昭和34年)、キョーピーのような童顔レスラーが赤い覆面を被りミスター・アトミックに変身、日本で大旋風を起こしたことをご記憶のオールドファンもいるに違いない。
覆面を付ける前は一介の前座レスラーに過ぎなかった者が、ミスター・アトミックに変身すると、凶器をマスクに忍ばせ力道山を血ダルマにし、日本中を恐怖に陥れたトップレスラーとして巨万の富を手にしたのであった。
これがプロレスの正体だ、ギミックそのものだ、全てがまやかし、欺瞞の証拠だと、アンチ・プロレスファンが声高に侮蔑するように口角泡を飛ばすが、それは一見正解のようで正解ではない。
セメントに強いだけでも、フェイクの卓越した才のある者でも多くの観客をいつまでも魅了納得させられるものではない。その奇跡を呼び込む天賦の才がないとマジックは生起しないものである。それに悩み泣く泣くリングを去った実力派レスラーは掃いて捨てるほどいるのである。
馬場にはその「天性のタッパ(身長)」があった。他の3羽カラスが羨み嫉妬する最高の「キャラクター」である。馬場は後に語っているがプロ野球時代に脳下垂体腫の手術を受けたことのある巨人症の畸形であった。そして、これも有名な話であるが大洋ホエールズ在籍時に、宿舎の風呂場で転倒して17針を縫う左肘軟骨を傷め、上腕二頭筋が付かない貧相なアンバランスの体躯を見せるしかなかった。
この貧弱さはベンチプレスで60㎏しか上げられないという馬場が死ぬまで隠し通した恥部に重なる。馬場は入門当初のある一時期しかトレーニングジムでのダンベル姿の練習風景をカメラに押さえられているが、その後は一切ない。一般のトレーニング・ジムでは己の非力さが世間に露見すると言って練習シーンを公開したことはない。
日プロの道場でさえ、ブリッジの出来ぬ馬場は1度も顔を見せることがなかった。その後、カール・ゴッチが専任となってゴッチ道場を開催。ここには猪木以下、ストロング・スタイルに共鳴した若手たちが参集し汗を流した。無論馬場の姿は、ここでも誰一人見る者はいなかった。この頃、馬場は日プロ社長・芳の里と麻雀を囲む毎日であった。
インタ王座防衛戦の当日朝まで宿泊先の旅館で芳の里らと雀卓を囲っていた馬場は馬場嫌いのトルコに厳しく戒められたことがあった。「トレーニングもせずに朝まで麻雀をしている姿をファンに見られたらどうすんだ!」と怒ったようだ。幸い?旅館の女将はプレッシャーで息抜きに麻雀をした、と好意的にとってくれたというエピソードもトルコが「遺言状」の中で回想している。
馬場の日プロ時代のあだ名は力道山が命名した「お化け」「割り箸」「モヤシ」だが、「化け物」というこの強大無比なセールスポイントは弱点(練習嫌いなど)全てを消し去りオツリがくるほどであった。
「化け物」馬場が大きく全面開花したのが米国武者修行であった。昭和36年(1961年)7月1日、芳の里、マンモス鈴木らと共に米国に飛び立った。入門して僅か1年3ヶ月という出世振りであった。そして力道山も嫉妬する人気とビッグマネー(アメリカン・ドリーム)を掌中に収めたのであった――。
テーマ : プロレス
ジャンル : スポーツ