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【馬場と猪木 日本プロレス史⑦】最期まで確執に生き貫いた壮大なプロレス人生の最終譜(最終話)

益々酷くなる一方の馬場、猪木の犬猿の仲は、何れ騒動に発展すると誰もが感じていたが、その不安が的中する大事件が起こった。昭和46年12月13日、猪木は会社乗っ取りの烙印を押され、日プロから叩き出されてしまったのである。

この一連の騒動の裏には猪木殴殺計画(未遂)、馬場の2千万円手形借金問題、芳の里「銀座豪遊」接待乱脈経営、上田馬之助の裏切り(内通タレ込み)、日プロ幹部の私的公金横領疑惑、木村昭政(猪木側近)の帳簿改竄疑惑等々この事件の周辺で蠢いた疑惑の事件簿だけで1冊の本になりそうである。この事件の全貌の解明が望まれるところであろうが、すでに何人かは何も語らず一緒に鬼籍に入れて永久に封印をしてしまった関係者もいて、断片的に語られている事実から想像するしかないのが現状である。

昭和47年3月6日猪木が新日本プロレスを旗揚げ、馬場も追うようにして昭和47年10月21日全日本プロレス旗揚げ興行を行い、以降、二人は最期まで交わることなく(昭和54年8月26日オールスター戦は別)別々の道を歩むことになっていった。

二人の独立にはそれぞれの性格が反映されていて興味は尽きない。突然、独り裏切り者の烙印を押され裸同然にホッポリ出されてしまった猪木はゼロ、と言うよりは全てがマイナスからのスタートであった。猪木を慕って行動を共にしたのは山本小鉄、藤波辰巳、木戸修、北沢幹之、柴田勝久、レフリーのユセフ・トルコ、大坪清隆(飛車角)の7人であった。山本小鉄を除けばゴッチ道場の門下生のグリーン・ボーイばかりであった。猪木が最初に起こした行動が上野毛の自宅を担保に借金し、このグリーン・ボーイたちを鍛え上げるトレーニング・ジムの設営であった。この陰では倍賞美津子夫人の多大な内助の功があったのは言うまでもない。

一方の馬場。インター王座から引きずり降ろされ(返上)、孤立無援、針のムシロ、四面楚歌の中で最後の地方巡業に参加した。新潟三条市(実家)の興行(馬場がプロモーター)が含まれていたこともあるが、最初から試合優先の発想ではなかった。本当の目的は試合後に各地方の興行師(プロモーター)たちに密かに会い、これから設立する全日プロを売り込むことであった。傍目から見れば日プロが宿泊・交通費を負担し、敵方の全日プロの興行を売り歩く手助けをした恰好で滑稽ではあった。いや、狡知に長けた馬場の頭脳勝ちであろうか。兎にも角にもその用意周到の抜け目のなさに関係者は半ば感心半ば呆れ顔であった。

それを一番象徴するのが日テレとの極秘交渉である。日プロの放映を打ち切り、全日に切り替える事が既にこの時点で決まっていたのである。その強みもあって、最後の地方巡業にも平然と同行できたと見る関係者も多い。この他にもリングの設営費用、輸送ルートの確認、子飼いレスラー選別の評価分け等、「石橋の上をブルドーザーを通してから渡る」慎重居士の馬場らしい行動であった。…その後の新日、全日の歴史の流れはファンもよくご存じのことと思う。

馬場・猪木を軸とした日本プロレス史の軌跡は一先ず今回で終わりにしたいと思う。実際、猪木、馬場の去った日プロはテレビ放送も打ち切られ昭和48年(1973年)4月20日の群馬県吉井町大会「アイアン・クロー・シリーズ」を最後に興行もストップ。その後、坂口は猪木の新日へ、日プロ残党組は百田家(力道山)の敬子未亡人の仲介で馬場の全日に引きと取られ(吸収合併)消滅していったのである。

「和解」の二文字が最期まで無かった馬場と猪木との関係は、別の角度から見れば、この二人の永きに渡る確執があったからこそ、日本のプロレス界は大いに発展したとも言えるのではないだろうか? 切磋琢磨、互いが伸びて大きくなるにはライバル・好敵手の存在が不可欠であるというのが社会のセオリー・鉄則である。

馬場&猪木の初試合が1960年。馬場死去の年が1999年。実に数えで40年という永きに渡ってライバル関係を保ってきたことになる。既に日プロ3羽ガラスの内の馬場、大木の両名は鬼籍に入り、現役を退いた猪木はプロモーター&ブッカーとしてプロレス界に関与している。

平成プロレスの人気が低迷したままだ。猪木は「今のレスラーは闘うテーマを喪って何をしていいのか分かっていない」と手厳しい。馬場、猪木が活躍した時代のプロレスは、一言で言えばセメントと八百長の清濁を併せ持つ懐の深さが魅力であった。馬場を応援し猪木を応援し、時にはファン同士が激突し、緊張関係を保っていたあの時代…。

観る側であっても真剣に必死にセメントで声援を送っていた。ショッパイ試合やミエミエのクサイ試合をすれば怒り、暴動、焼き討ちといった騒動にまで発展したあの時代の物騒なプロレス。そこには今のように「みんなニコニコ仲良く一緒にお手々繋いでお遊戯」の学芸会ごっこ、所謂そういった弛緩した世界では決してなかった。そうしたファンの緊張感がレスラーを育てた部分もあった時代であった。

今思う。もしこの馬場&猪木の因縁・確執が実はアングルであったとしたなら?…これほど壮大で完璧は大仕掛けはプロレス史上始まって以来のものだ…という密かな妄想を楽しんでいる。大木金太郎、馬場正平に合掌…。

追伸
猪木プロレス、遺伝子は猪木本人が語っているように新日レスラーに個人差はあるにせよ、受け継がれているが、馬場プロレスは受け継ぐ者はいなかったし、馬場一代限りのもので引き継がれる性質のものではなかった。後生に伝えることが先人の役割、使命であるなら、猪木は立派にその任を果たしたといえよう。(了)



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【馬場と猪木 日本プロレス史⑥】 最期まで確執に生き貫いた壮大なプロレス人生の最終譜(第3話)

東京プロレス参加の自省から自ら馬場の肥やし役を買って出た猪木であったが、その忍耐も昭和44年第11回ワールド・リーグ優勝、同12月NWA世界選手権保持者ドリーファンク・ジュニアとの60分ノーフォール・マッチの歴史に残る名勝負を演じ、限界を迎えた。「人気の馬場」「実力の猪木」という世評が高まり、ファンを二分するほどの盛り上がりを見せ、猪木自身もその渦中に自ら飛び込んでいったのである。

選手会長(トップ)がインター(ナショナル)王座、ワールド・リーグ優勝者という日プロの不文律の掟(闇のルール)の一端を崩した猪木(11回ワールド・リーグ優勝)だったが、馬場一派の巻き返しは強く、「インター・チャンピオンだけがワールド・リーグ優勝者の権利がある」と強行に主張。二人の仲は一層亀裂が深まっていった。

「ワールド・リーグ馬場優勝」路線を固守するために外人招聘窓口の責任者だった遠藤幸吉は、セメントでも猪木を潰せる親馬場派で猪木が不得手とするドン・レオ・ジョナサン、クリス・マルコフ(前回準優勝)、ダッチ・サベージといった猛者たちを馬場の防波堤要員として選んだ。

本戦ではジョナサンから勝ち星を得た猪木ではあったが、馬場包囲網のカベは厚く、この年の優勝は予定通り馬場の手に渡った。次を逃したら「一生馬場の風下、肥やし役で終わってしまう!」と危機感を募らせた猪木は自ら自身の退路を断つ覚悟で挑んだ13回ワールド・リーグ戦であった。

しかし、馬場擁護の組織防衛に走る日プロ幹部たちは八百長クジ引き、デストロイヤー「セメント阻止戦」(別稿で詳しく紹介)といった裏で猪木潰しの計略を謀り、表面では正式な「馬場への挑戦状」を「時期尚早」の一言で門前払いを喰わせた。それは猪木(一派)を蚊帳の外に置く村八分の状況を生じさせることでもあった。

この二人の確執の背景にはテレビ局が大きく影響を及ぼしているのは、誰の目から見ても明らかであった。力道山時代から日本テレビと二人三脚で強力なパートナーシップを組んでいたが、止まることを知らぬプロレス人気、当時は視聴率も常時30%を超え、年間興行数も200試合を超える我が世の春を謳歌していた時代であった。

そのプロレス人気にあやかろうと横から札束で強引に割り込んできたのがNETテレビ(テレビ朝日)であった。カネの魔力には抗うことは出来ず、昭和44年5月から放送は始まった。日本テレビへの妥協案とし馬場と坂口征二(昭和42年入団)の二人の試合は日テレ独占、NETでは放送しないという契約で納得させたのであった。

当時の放映料は年間契約料3千万、1試合放送料は500万円だったと言われている。年間54週と計算すれば2億7千万が日プロの金庫に収まった勘定になる。日レレは馬場、NNETが猪木を看板に2局でプロレス放送が開始。毎週ゴールデンタイムにプロレス放送が2回見られ、喜ぶファンは多かった。(国際プロレスを含めれば週3回!)

猪木を大スターに祭り上げるには看板のシングルタイトルがどうしても不可欠と判断したNETはNWAへ多額の権利金・保証金を支払いUN(ユナイテッド・ナショナル)タイトルを作成した。この頃からであろうか、チャンピオンの粗製濫造が始まり、タイトルの価値が失墜していき、それに併せるようにプロレス人気にも翳りが生じてきたのであった。

NETテレビがビッグマネーを支払い猪木個人用に作ったこのUNベルトは、後に日プロ崩壊を経て全日のジャンボ鶴田の専用ベルトになるという皮肉な因縁を持ち呪われたベルトの異名を有す不吉なチャンピオン・ベルトと呼称されるようになった。猪木は日プロを追放、鶴田はB型肝炎発症、臓器移植のショックで死去という忌まわしい事実から出た話であるのは言うまでもない。

新日設立後、ベルト無しで興行的に苦戦を強いられている猪木をバックアップしようと、NETは非公式に日テレにUNベルトの返還を申し出たが、日テレ側は「猪木が自ら返上したタイトルで、その所有権・使用権は日プロから(吸収合併した)全日に継承されたもの」という建前論を崩さず一銭も払わずタダ取りしてしまったのである。NET側も終始、建前の正論で攻められては「カネを出して(UNというインチキ・ベルトを)作ったのは我々NETだ! 所有権も使用権もウチが有するものだから返せ!」という本音も言えず、渋々引き下がったのであった。

日本テレビ専用インターの王座に収まる馬場、一方のNETテレビ用のUN王座に着く猪木の二人の様子は、傍目にはカネの腐臭がプンプンするブリキのオモチャを宛がわれ喜々とする猿山のボスのようで滑稽そのものであった。マスコミ用のリップサービス以外は互いに口も聞かず、派閥の首領に収まり子飼いの手下レスラーたちに囲まれる様子は暴力団のそれと変わりはなかった。こうした二人の関係を見れば誰の目にも瓦解は時間の問題と映った。

プロレス新聞の記者たちも馬場派、猪木派に分かれ露骨な中傷合戦、小遣い銭欲しさに今日は馬場のヨイショ、明日は猪木のフンドシ担ぎといった魑魅魍魎の化かし合いや足の引っ張り合い、裏切りやスパイ合戦が繰り広げられていったのである。

そこへプロレス界を揺り動かす大激震が走った――。

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【馬場と猪木 日本プロレス史⑤】最期まで確執に生き貫いた壮大なプロレス人生の最終譜(第2話)

東京プロレスのエースとして猪木が単身米国に乗り込み、自分の目で選んだ男は確かであった。「金髪の妖鬼」ジョニー・バレンタインの「毒針」エルボー・ドロップの破壊力は強烈で、肘に鋼鉄が仕込まれているという伝説も生まれるほど、観客にも痛さを感じさせるワザの納得性があった。単純なワザゆえ誤魔化しの余地のない凄みが客席に伝わった。

昭和41年(1966年)10月12日に初対決となった猪木との死闘は名勝負の誉れが高いがテレビ放映がなく、猪木ファンには幻の一戦となっている。この試合で猪木は初めて強靱なブリッジを活かしたアントニオ・ドライバーを披露し、31分56秒リングアウト勝ちを収めた。ちなみに週刊ファイト編集長・井上義啓はこの一戦を猪木のベストマッチに挙げている。

東京プロレスのエースとして猪木は孤軍奮闘したが、カネなし、計画性なし、豊登のギャンブル狂が祟りあえなく昭和41年12月19日の最終興行をもって崩壊。東京プロレスは実質、半年足らずの命運であった。

昭和43年4月3日猪木が日プロに復帰する。この時期、日プロ首脳陣はある懸念材料があった。それは絶縁したグレート東郷が今度はルー・テーズと組み国際プロレス(TBSプロレス)と全面提携を結び甘い蜜を求めブッカーとして日本へ再上陸をはたしたのであった。

ヒロ・マツダの参入も噂され、そのルートから猪木も一緒に行動を共にするのでは? という尾ひれ羽ひれがつき真しやかに伝わり、この噂が猪木の寛大な処置、というよりはほとんどは無罪放免に近く、むしろ日プロが移籍金を払う、どちらかと言えば猪木はこの騒動の被害者という立場にすり替わっていた。この仲介の労を取ったのはスポーツニッポン新聞社社長・宮本義雄であった。

実は猪木にはもう一人強力な援軍がいた。当時の日本プロレス・コミッショナーであった川島正次郎(自民党副総裁)である。当時、政界の寝ワザ師ともカミソリ正次郎とも言われた政界ナンバー2が「猪木ほどの逸材を消すのは惜しい。日本のプロレスの発展のため、小異を捨てて大同に就け!」と鶴の一声。政界の裏首領の言葉に異議を唱えられる者など誰一人いるはずがなかった。

猪木はこの擾乱に乗じて日プロから移籍料2千万円の支度金をせしめた。永らく1千万という説が巷では有力だったがユセフ・トルコの著書「プロレスへの遺言状」で当時、日プロの経理担当の職にあった三澤正和が「猪木に支払われた額は2千万円だった」と明言している。

東京プロレスの整理精算が表向きの理由であったが、アメリカ人ダイアナ夫人との新築費用(世田谷区上野毛)でもあったようだ。この時、夫人との間に一女をもうけている。ちなみに当時の2千万は現在の貨幣価値に換算すれば1億4370万というビッグマネーであった(昭和43年度国家公務員初任給25302円。平成19年度国家公務員初任給181200円。≒7.16倍)。

こうして日プロに復帰してからしばらくの間は、禊ぎ期間と自らを戒め、馬場を側面から全面サポート。日本最強のBIタッグが実現しファンの期待に応えていた。あれほど嫌悪し東京プロレスに走る理由であった「馬場の肥やし役」に徹し、面従腹背の忍でインタータッグ戦では絶妙のコンビネーションを見せもしたのである。猪木の胸の内で燻る葛藤などを露とも知らぬファンはこのタッグに熱狂した。

当時のマッチメーカーは吉村道明であったが、猪木も積極的にプロットを進言し、新しいストーリーの組み立てをファンに提供し、そのBIコンビが見せる新たなプロレスにファンは大いに魅了されていった。基本のシナリオは3本勝負では猪木が1本ずつを取って取られ、決勝の3本目は馬場がオイシイところを掠め取るというストーリー展開ではあった。

このような文字の羅列では全く味気ないが、実際のファイト内容は二人の持ち味が存分に披露され、猪木の硬軟織り交ぜた躍動感一杯の攻守がクイックで入れ替わるハイ・スパート攻撃に、ここぞと重厚感溢れる馬場のフィニッシュへスパートする試合の組み立て方は豪快であった。巨体が明らかに大きな「武器」であり、脚力の強さは32文ミサイルキックの説得力にもそれなりの納得性、整合性が保たれていた時代であった。

この時代のBIコンビは最高で最強だっと評価するファンは多いが馬場の体力を考えれば確かにひとつのピークであった。だが圧倒的な「武器」だった馬場の巨体が「ハンデ」に朽ちていくのも意外と早かったのであった――。


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【馬場と猪木 日本プロレス史④】最期まで確執に生き貫いた壮大なプロレス人生の最終譜(第1話)

時間を馬場、猪木ともデビュー間もない頃に巻き戻そう。先の馬場のデビュー相手だった田中米太郎に力道山が呟いたように、馬場は地方巡業に限らず、どの会場でも耳目を集め、黒山の人だかりであった。その好奇な目は段々とエスカレートし、試合云々よりも「化け物」に寄せる興味、関心と変わらぬものであった。

プロレス新聞も馬場を読者の好奇心を擽るような針小棒大、中には明らかにデッチ上げの与太記事(缶詰を歯で空ける、生きた鶏を毟って喰らう、飯は茶碗代わりにオヒツで喰らう等)もあり、それを読んだ力道山は「ひでェー記事だ」と言いつつも、顔はほくそ笑んでいたという。その顔は格闘家の顔ではなく、冷徹な経営者の顔であった。馬場のお化け度が増すのに比例するかのように観客動員数も増えていったのである。 

出世コースを順調に歩む馬場はこの頃になると、すでに他の3羽ガラスに2馬身も3馬身もりードする恰好で、幹部候補生としてアメリカ武者修行の旅も決まり、力道山の付き人だった猪木、万年前座下積み生活の大木は地団駄を踏んで悔しがり、嫉妬心で怒り狂っていた。

馬場、猪木、大木(マンモス鈴木はアメリカで女性問題を起こし脱落)の3人に淀む確執はデビュー戦から始まっていたと言ってもいい。セメントで潰しあった猪木と大木、いきなり片八百長で勝ちを収めた馬場との立場の違い。それは馬場だけに許された特権待遇がこれからの猪木、大木に目の見えぬ亀裂が生じていったわけである。

それは依怙贔屓に対する強烈なジェラシーと置き換えてもいい。馬場の商品価値の大きさをきっちりと知っていたのは力道山だけだったのである。ガンガン練習を積み体躯を作り強くなればマネーは後から付いてくるものという17歳らしい考え方は、フツーの格闘技であれば当然であったろうがプロレスの世界は違ったのである。弱くても客を集められるレスラーは出世もし、チャンピオンにだってなれる…このことを知るにはまだ時間が足りなかった。

猪木は力道山存命中に果たせなかった米国武者修行の旅を馬場に遅れること2年8ヶ月、猪木のボスである豊登と共に昭和39年3月9日初渡米。この豊登渡米には大きな目的があった。それは日本プロレスから甘い汁を吸い放題だった外人招聘窓口役だったグレート東郷を力道山死去を境に絶縁し、沖識名ルートからロサンジェルス地区のプロモーター・ミスターモトと招聘交渉することであった。

このグレート東郷との絶縁には力道山への貸付金だと称し、東郷は証文なしの5万ドル(今の貨幣価値で1億8千万円)の返金を要求。守銭奴ぶりを熟知する日プロ幹部たちは無用のトラブルを避ける意味からも「今後一切日プロとは関係を持たない」という誓約書に判を捺させ、手切れ金としてこのビッグマネーを支払った。

米国でのグレート東郷のようなマネージャー的存在がいなかった猪木は、やがてフリーのヒロ・マツダに出会う。元々、力道山の相撲の封建的因習が残る日本プロレスが嫌で飛び出した男であった。ジュニアヘビー級と軽かったがスピィーディーなケレン味のないファイト・スタイルは猪木も大いに勉強になったという。

猪木&マツダのコンビはテネシー州の南部タイトルやNWA世界タッグ(テネシー地区)の王座に着いている。コンビネーションの良さは南米ブラジル育ちの猪木と、日本人ながらアメリカに居を構えるマツダの大陸的合理性との相性が合ったのかも知れない。

その最中、事件は起こった。昭和41年3月20に勃発したのが「太平洋の略奪」東京プロレスの旗揚げであった。ハワイで馬場や吉村と落ち合うために米国本土より飛来して来た猪木を待ち構えていた豊登が略奪した事件である。この時、豊登が猪木を口説き落としたセリフが「日本プロレスに戻ってもオマエは一生馬場の肥やしになるだけだ!」と、猪木の馬場への異常とも言えるライバル闘争心に煽るように火を付けた文言だったと言われている。

もう一つの理由がファイトマネーの算出方法であった。日本人レスラーは1試合いくらの計算だが、外国人レスラーは週給払いが当時の決まりであった。ここで猪木は週給報酬を提示されたという。つまりは馬場の助っ人、よそ者扱いという日プロ幹部の姿勢をそう感じ取ったからと、後に猪木は語っている。

そして東京プロレスの命運を握る「若獅子」アントニオ猪木が単身米国に乗り込み、交渉してきたのがセメントの容赦のない打撃スタイルで、レスラー仲間からも敬遠されていた「毒針」ジョニー・バレンタインであった―。



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【馬場と猪木 日本プロレス史②】馬場vs猪木が初対決!「馬場勝利」の裏側で蠢く人間模様の葛藤

前編部分の馬場・猪木のデビュー戦の裏事情は門茂男「ザ・プロレス365」「門メモ」より抜粋し再構成してお届けした。このデビュー戦での門茂男氏の考えでは、馬場は片八百長で勝たせてもらったことを、この書物(ザ・プロレス365)が発刊されるまでは知らず、自分の実力で勝ったと思い込んでいたという。

このデビュー戦から8ヶ月後の昭和36年(1961年)5月25日富山市立体育館で馬場vs猪木の初対決が行われ、羽交い絞め(フルネルソン)9分25秒で馬場が勝利した。この時の猪木の率直な感想が「門メモ」には残されていた。

「この男と組み合った僕はサイズの違いをヒシヒシと感じた。それに思っていたよりリーチもあり、足も強かった。そして、彼は重かった(猪木78㎏馬場95㎏)…」と語り、敗戦の悔しさで眠れなかったと結んでいる。以降、馬場vs猪木戦は16回行われ馬場の16勝0敗という記録が残っている。この内、何試合がセメントであったのかは不明で、馬場、猪木共に語ることはなかった。馬場が鬼籍に入った今となっては、真実は猪木の回顧録を待つしかないようだ。

当時、日プロ4羽カラス(馬場、猪木、大木、マンモス鈴木)として注目を集めていたが、実際は馬場一人だけが月給5万円(後に3万円に格下げ)をもらいアパート(川崎市・新丸子)住まいという特待生扱いであった。他3人は合宿住まい無給(小遣い)という格差待遇であった。

力道山はどうしてこうした差別待遇を処したのか? ジャイアンツの選手だったとは言え、万年2軍選手で1軍での通算成績は3試合0勝1敗と、とても誇れるものではない。しかも解雇(自由契約)され力道山に拾われたも同然の境遇であった。

ただ唯一とも言える他3人にはないもの、それは2メートルを越すタッパ(身長)であった。これはどんなハード・トレーニングを積んでも決して得ることの出来ぬ天性の「武器」であった。

野球界でも2階から投げ降ろす速球に期待してスカウトしたわけであったが、ボールにスピードが伴わず期待外れに終わってしまった。だがプロレスでは違った。ただ立っているだけで注目を浴び観客が入った。

幼小の頃から身長はコンプレックスであった。服も靴も既製品はなく母親手作りの褞袍を着て欠けた下駄か裸足で家業の八百屋でリヤカーを引く毎日であった。だがプロレスはコンプレックスが武器になった。他人との差別化、個性を磨こうと日夜必死の選手たちをよそ目に、嫉妬と羨望の目で他レスラーから見られていることも痛いほど分かった。

馬場はその存在だけで脚光を浴び観客を集めた。すなわちスター(ビッグマネー)を手にすることができる条件を生まれながらに有していたのであった。リング上の強さよりも優先される必須事項であった。

この時代(昭和34年)、キョーピーのような童顔レスラーが赤い覆面を被りミスター・アトミックに変身、日本で大旋風を起こしたことをご記憶のオールドファンもいるに違いない。

覆面を付ける前は一介の前座レスラーに過ぎなかった者が、ミスター・アトミックに変身すると、凶器をマスクに忍ばせ力道山を血ダルマにし、日本中を恐怖に陥れたトップレスラーとして巨万の富を手にしたのであった。

これがプロレスの正体だ、ギミックそのものだ、全てがまやかし、欺瞞の証拠だと、アンチ・プロレスファンが声高に侮蔑するように口角泡を飛ばすが、それは一見正解のようで正解ではない。

セメントに強いだけでも、フェイクの卓越した才のある者でも多くの観客をいつまでも魅了納得させられるものではない。その奇跡を呼び込む天賦の才がないとマジックは生起しないものである。それに悩み泣く泣くリングを去った実力派レスラーは掃いて捨てるほどいるのである。

馬場にはその「天性のタッパ(身長)」があった。他の3羽カラスが羨み嫉妬する最高の「キャラクター」である。馬場は後に語っているがプロ野球時代に脳下垂体腫の手術を受けたことのある巨人症の畸形であった。そして、これも有名な話であるが大洋ホエールズ在籍時に、宿舎の風呂場で転倒して17針を縫う左肘軟骨を傷め、上腕二頭筋が付かない貧相なアンバランスの体躯を見せるしかなかった。

この貧弱さはベンチプレスで60㎏しか上げられないという馬場が死ぬまで隠し通した恥部に重なる。馬場は入門当初のある一時期しかトレーニングジムでのダンベル姿の練習風景をカメラに押さえられているが、その後は一切ない。一般のトレーニング・ジムでは己の非力さが世間に露見すると言って練習シーンを公開したことはない。

日プロの道場でさえ、ブリッジの出来ぬ馬場は1度も顔を見せることがなかった。その後、カール・ゴッチが専任となってゴッチ道場を開催。ここには猪木以下、ストロング・スタイルに共鳴した若手たちが参集し汗を流した。無論馬場の姿は、ここでも誰一人見る者はいなかった。この頃、馬場は日プロ社長・芳の里と麻雀を囲む毎日であった。

インタ王座防衛戦の当日朝まで宿泊先の旅館で芳の里らと雀卓を囲っていた馬場は馬場嫌いのトルコに厳しく戒められたことがあった。「トレーニングもせずに朝まで麻雀をしている姿をファンに見られたらどうすんだ!」と怒ったようだ。幸い?旅館の女将はプレッシャーで息抜きに麻雀をした、と好意的にとってくれたというエピソードもトルコが「遺言状」の中で回想している。

馬場の日プロ時代のあだ名は力道山が命名した「お化け」「割り箸」「モヤシ」だが、「化け物」というこの強大無比なセールスポイントは弱点(練習嫌いなど)全てを消し去りオツリがくるほどであった。

「化け物」馬場が大きく全面開花したのが米国武者修行であった。昭和36年(1961年)7月1日、芳の里、マンモス鈴木らと共に米国に飛び立った。入門して僅か1年3ヶ月という出世振りであった。そして力道山も嫉妬する人気とビッグマネー(アメリカン・ドリーム)を掌中に収めたのであった――。



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ブロマガ

紹介文:門茂男主宰のユニオン元会員で、同氏には長年に渡りご交誼を賜った。ライフワークであった「ザ・プロレス365」の未発表を含む取材メモを見せて頂き、その要点を再構成した「門茂男メモ」と数名のプロレス記者から入手した情報をベースに記した昭和プロレスのテーマに迫ります。
ミスター高橋の「流血~」本で白日の下に暴かれたプロレスの実像ですが、単なる暴露もので終わるのではなく、門氏が追及したレスラーの人間性にまで同じように迫りたいという思いです。

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プロフィール

シンタロー

Author:シンタロー
プロレスのテレビ初観戦は小学生前の幼少期に祖父宅で見た力道山プロレス。その当時、一番印象に残っている試合は降参しないと足が折れると技の恐ろしさを足4の字固めで教えてくれたザ・デストロイヤーや、吸血鬼を連想させる噛みつきで相手を出血させるレスラーの怖さを知らしめたフレッド・ブラッシーよりも、幼心にはコミカルな妙技で笑い転げたミゼット・レスラーとのタッグマッチであった。それは祖母が馳走してくれた三ツ矢サイダーの味と共に脳裏に刻まれている。放送日の詳しいことは不明だが、昭和35年8月にミゼット・レスラー(名前は不詳)初来日の記録がある。テレビ観戦がその時期のどの試合であったかは今となっては調べようもないのが残念である。
一般総合雑誌・書籍編集者として多数のプロレスや格闘技関係の企画立案に参画し、馬場、猪木、大山倍達、木村政彦を始め多くのレスラーや格闘家を取材。プロレス界のご意見番・門茂男氏とは編集ジャーナリストの大先輩として長年に渡り公私ともども御交誼を賜った。お会いする度に未整理、未発表の「ザ・プロレス365」のラフ原稿を見せて頂き、同時に門氏が口頭で語った様々なある事件の真相や噂(裏付けが未確認)を氏の了解を得てノートにまとめ「門メモ」として所有する元ユニオン会員。

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