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【馬場と猪木 日本プロレス史③】 力道山が嫉妬したアメリカ武者修行時代「モンスター・ババ」のカネと人気

開局間もない東京12チャンネル(テレビ東京)でアメリカの古き良きプロレスを「ファイトアワー」(1968年11月30日スタート)の題名で土曜日20時というゴールデンタイムに流した。視聴率も10%を叩き出し同局の看板番組と言われるまでに育っていった。その貢献には解説・田鶴浜弘、実況・杉浦滋男の名コンビの話術の妙が大きかった。

その「ファイトアワー」では馬場の武者修行時代の姿が映し出された。高下駄に田悟作タイツの上から相撲の廻しを着け、褞袍を羽織り、坊主頭のちょびヒゲ姿で登場する様は当時のマネージャー役であったグレート東郷の恰好と同じであった。

コールされたリング名は「ショーヘイ・ババ・ザ・モンスター」であった。リング上で四股を踏み塩を撒く馬場の姿は今となっては貴重であろう。未開の国・ニッポンから来た「化け物」のヒール人気は絶大であった。当時の米国のプロレス雑誌では「生傷男」ディック・ザ・ブルーザー、「殺人狂」キラー・コワルスキーと並び、「東洋のフランケンシュタイン」馬場が世界の3大悪党として紹介されていたのである。

馬場のリングネームがモンスター(フランケンシュタインを名乗っていた時期もある)であったようにアンドレ・ザ・ジャイアントもデビュー当時のリングネームはモンスター・ロシモフと名乗っていた(このリングネームで国際プロレスに出場)。1990年4月13日、全日のマットでこの「化け物」タッグが実現したが、それも何かの奇縁であったのだろうか。

「ヒロシマのアトミック・ボムで両親が焼き殺され放射能を浴びたジャップの子孫がモンスターに畸形してアメリカにリベンジにやって来た!」といったような宣伝PRがそのヒール人気に恐怖の色を添えていた。今ではとても使えない宣伝文句であろう。ヒール人気のピークが1964年2月に記録されている世界3大タイトル連続挑戦である。

2月5日、6日のNWA(ルー・テーズ)、2月17日のWWWF(ブルーノ・サンマルチノ)、2月28日、3月20日のWWA(フレッド・ブラッシー)でテーズとの2連戦とサンマルチノ戦との3試合のギャラは1万4千ドル(当時の換算で504万円)だったと資料に残されている。

馬場が力道山没後、真剣に米国マット界を主戦場にするか、旅行代理店をやるか逡巡していたのは理由があった。小うるさい舅だらけの日本マット界に戻れば苦労、遠慮が絶えないと不安を覚えたからだ。これは後になって的中することになるが、これに加えマネージャー役であった「守銭奴」グレート東郷のギャラのピンハネも発覚し東郷とは絶縁した。

そしてどうしても帰国しなければならない理由に力道山に貸し付けたマネー1万5千ドル(540万円)の回収があった。田中敬子嬢との結婚、相模湖畔レイクサイド・カントリー・ゴルフクラブ建設、油壺マリーナ・ヨットクラブ、リキ・マンション、リキ・スポーツパレスの建設といった事業への投資で、力道山は現ナマが幾らあっても足りない状態であった。

本業のプロレスでもロサンゼルス地区を拠点とするWWA世界タイトルをフレッド・ブラッシーより獲得(昭和37年3月29日。同年7月26日の再戦で敗れる)の舞台裏で暗躍したのがグレート東郷の存在であった。当時の日本プロレスの外人招聘窓口を一手に握っていた日系とも韓国系とも出自不明のレスラーであった。

世界と名の付くタイトルが欲しかった力道山に全面協力したのがグレート東郷で、当時のカネで5万ドル(1800万円)という途方もない金額を「WWAへ支払う権利金、タイトル保証金だ」と言葉巧みに弄し、力道山から引き出したのであった。因みに当時の貨幣価値を現在の価値に換算すると1億8900万円というとんでもない金額になる。(昭和38年度大卒程度国家公務員初任給=17100円、平成19年度大卒程度国家公務員初任給=181200円、≒10.5倍)

力道山が死去した時、馬場は米国武者修行の途であった。馬場のヒール人気は絶大で、グレート東郷は馬場をマネジメントし大儲けを企んでいたが、慎重居士の馬場は自分のファイトマネーが7割以上ピンハネされていることに気づき、「絶対、東郷の甘言にだけは乗るまい!」と拒絶を通したのであった。後に東郷評を尋ねた古参記者に「殺したいほど憎かった!」と感情をほとんど表に出さない馬場にしては珍しいエキサイト振りだったと語っている。正にカネの恨みの深さを物語るエピソードである。

天下の力道山に540万(現在の貨幣価値では5670万)の貸し金を有す馬場が幹部候補生となって昭和38年3月17日、力道山と共に米国、カナダの武者修行の旅から凱旋帰国。同年の第5回ワールド・リーグ戦にも出場し4勝2敗の成績を残し、他のライバル3羽カラス(猪木、大木、マンモス鈴木)には大きく水を空け、格違いの出世振りを満天下に示した。

この時の馬場の胸中には猪木の存在は消えてなくなっていたのである。順風満帆に出世の階段を登る自分の地位と比べれば、猪木は万年前座の負け役で燻るその他大勢の一コマ。後に馬場自身が語っているが、「猪木をライバルと思ったことは一度もない」と余裕タップリの誇らしさは、この時期の二人の力関係を見れば確かに正しかったと言える。メインイベントにも起用される馬場を見て、どんどんとその距離が離れていくことに焦りとも嫉妬とも思える感情がふつふつと滾る猪木であった――。


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テーマ : プロレス
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紹介文:門茂男主宰のユニオン元会員で、同氏には長年に渡りご交誼を賜った。ライフワークであった「ザ・プロレス365」の未発表を含む取材メモを見せて頂き、その要点を再構成した「門茂男メモ」と数名のプロレス記者から入手した情報をベースに記した昭和プロレスのテーマに迫ります。
ミスター高橋の「流血~」本で白日の下に暴かれたプロレスの実像ですが、単なる暴露もので終わるのではなく、門氏が追及したレスラーの人間性にまで同じように迫りたいという思いです。

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シンタロー

Author:シンタロー
プロレスのテレビ初観戦は小学生前の幼少期に祖父宅で見た力道山プロレス。その当時、一番印象に残っている試合は降参しないと足が折れると技の恐ろしさを足4の字固めで教えてくれたザ・デストロイヤーや、吸血鬼を連想させる噛みつきで相手を出血させるレスラーの怖さを知らしめたフレッド・ブラッシーよりも、幼心にはコミカルな妙技で笑い転げたミゼット・レスラーとのタッグマッチであった。それは祖母が馳走してくれた三ツ矢サイダーの味と共に脳裏に刻まれている。放送日の詳しいことは不明だが、昭和35年8月にミゼット・レスラー(名前は不詳)初来日の記録がある。テレビ観戦がその時期のどの試合であったかは今となっては調べようもないのが残念である。
一般総合雑誌・書籍編集者として多数のプロレスや格闘技関係の企画立案に参画し、馬場、猪木、大山倍達、木村政彦を始め多くのレスラーや格闘家を取材。プロレス界のご意見番・門茂男氏とは編集ジャーナリストの大先輩として長年に渡り公私ともども御交誼を賜った。お会いする度に未整理、未発表の「ザ・プロレス365」のラフ原稿を見せて頂き、同時に門氏が口頭で語った様々なある事件の真相や噂(裏付けが未確認)を氏の了解を得てノートにまとめ「門メモ」として所有する元ユニオン会員。

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