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【馬場と猪木 日本プロレス史①】その後のプロレス人生を象徴した馬場「片八百長」猪木「セメント」のデビュー戦

「日本プロレス史」を語る上で決して外せないのが創始者の力道山と、その力道山亡き後の日本プロレスを支えた馬場正平と猪木寛至の二人であることに異論を挟む者はいないだろう。世界のプロレス界を見渡してもこの二人の宿縁関係、あるいはライバル関係と言ってもいいと思うが、「馬場と猪木」を超える永劫の宿敵競争関係を保った者はいない。

年齢こそ5つ離れていたが期せずして1960年(昭和35年)4月11日の同日入門、同時デビューはこれから未来永劫続く宿命の絆を暗示しているようで、運命の悪戯としか言いようがない。だが、二人の入門風景をつぶさに見てみると大きな違いがあった。

1回目のブラジル遠征時(昭和33年11月7日)に力道山は現地の邦字新聞社幹部と日系社会の重鎮から、陸上の砲丸投げで優勝した猪木を推薦された。しかし力道山は17歳の若さと体力を考えれば4年後に開かれる東京オリンピックに出場し、名を成してからでも遅くないと固辞したという。

だが再度のブラジル遠征時(昭和35年2月26日帰国)にも強く猪木を推された力道山は考えを改め、若い時から自分の手元に置き、ガンガン鍛え上げれば、日系社会のスターも夢じゃないと、ブラジルをプロレス・マーケットの有力地と考えていた力道山の視野に猪木がいたのは確かであった。そうした思惑も絡み、猪木をスカウトしたのであった。

一方の馬場はどうだったか。昭和34年の夏、新宿コマ劇場でジャイアンツ球団設立25周年のパーティーが開かれ、そこにゲストとして力道山が招かれていた。その控室でジャイアンツOBから紹介されたのが馬場であった。半ば社交辞令で「野球が嫌になったらワシを訪ねて来なさい、歓迎するよ!」と馬場に声をかけた。

間もなく馬場は2軍をクビになり大洋の練習生として再起を賭けたが、宿舎の風呂場で転倒し17針縫う大怪我で野球人生に終止符を打たれ、失意のどん底の中で脳裏に浮かんだのが先の力道山の言葉であった。

一縷の望みを託し馬場は昭和35年4月10日、日本橋浪花町にあったプロレス・センターに力道山を訪ね、半ば強引に押しかけ入門をしたのであった。力道山のスカウトで入門した猪木に対して生活のため、泣きついて入門が許可された馬場。ここからも二人のその後の人生の軌跡を暗示しているようでならない。

馬場22歳、猪木17歳。入門5ヶ月後の1960年9月30日、東京の台東区体育館で15分1本勝負のデビュー戦を迎えた。猪木の相手は兄弟子に当たる大木金太郎で、馬場の相手は相撲時代を含め15年に渡り力道山の側近を務め、合宿所では寮長、ジムでは若頭を兼任する実力者の田中米太郎であった。

今にして思えば猪木の相手に大木金太郎、馬場の相手に田中米太郎を選んだ力道山の胸中にある深謀遠慮を読み取れることができる。不器用ながらセメントの強さを誇っていた大木金太郎、腹心の側近として忠誠心は随一と自他ともに認めていた田中米太郎…。

試合前、力道山は興奮で身震いする猪木に言った。
「勝とうなんて思うな! 兄弟子の金太郎とは15㎏以上の体重差がある(猪木78㎏)。この(入門してから)5ヶ月間に叩き込まれた全てをはき出してブチ当たって行け!」

その後、大木にはこう耳打ちした。
「新弟子の猪木なんて小僧相手に5分以上もモタっていたら、例え試合に勝っても勝負で負けたと思え!」と発破をかけたという。

結果は頭突きの5連打で7分6秒逆腕固めで大木の勝利。花道を帰る猪木に対し、じっと奥で観戦していた力道山は声をかけた。

「若くて軽いのによくやった! 大木の遠慮なしの頭突きを2発3発喰らってもノビなかったんだからたいした奴だ。今日の調子を忘れるな。勝った負けたといった結果だけにこだわっていたら良いレスラーにはなれんぞ!」

怒鳴られることを覚悟し緊張していた猪木はホッとしたのだろう、にわかに頭突きで膨らんだ瘤の痛みを感じてきたという。そして力道山が大木に先のような檄を飛ばしたことを知りこう思った。

「先輩の大木サンは試合前には、新弟子でも5分以上死に物狂いで闘えと激励してくれた。5分も保たない奴は先生(力道山)からダメな野郎と烙印を押されてしまう、と心配もし気遣ってくれた。大木サンは何度かオレを倒すチャンスがあったはずなのにそれをしなかった」

猪木はこの時、自分のペースだけでオフェンスに出るだけではいけないと、プロレスの在り方、勝ち方の奥義を身体で知った思いだったという。

田中米太郎は特別待遇される馬場を快く思わない感情を抱いていた。「もし調子に乗るようなことをしでかしたら地獄の恐怖を味合わせてやる!」と密かに誓うのであった。

「オマエはまともにやれば野球くずれのモヤシみたいな馬場に負けるはずがないと思っているだろ。オレもオマエが(入門)5ヶ月の馬場なんかに負けるとはハナから思っていない。だがな、オマエが実力通りに馬場を潰したところで、日本プロレスに何かいいことが1つでもあるのか? 

あいつは万年2軍ながらジャイアンツにいた男。それに2メートルを越す大男だ。あいつを地方巡業に連れて行き、会場の入り口に立たせておけばいい宣伝になる。あいつはお化けでオマエは人間。お化けに人間サマは勝てない、この意味は分かるな!」

と試合前、意味深な言辞を力道山は田中に弄したのであった。リングに向かう花道の途中で大木は「兄弟子なんですから頑張って下さいよ! 遠慮なんかせずにガンガンいって下さい!」と激励したが、力道山の言葉が頭の中でグラグラと響き耳に入らなかった…結果は9分29秒、股裂きで馬場の勝利であった。

この試合を猪木戦と同じように花道の奥で観戦していた力道山だが、何故か馬場には一言も感想を述べず、控室に戻った田中に対し「どうだった? 馬場の腕前は? 遠慮なく言ってみろ!」と言い放った。

「結論から言ってまだまだですよ! 大木なんかとやらせたら5分はおろか3分も保たんでしょう」
この言葉を遮るように力道山は言った。
「猪木と馬場をガチンコでやらせたら大木に善戦した猪木の方が馬場よりも直ぐ強く育っていくとでも言うのか?」
この問いに田中は真顔で頷いてみせた――。




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テーマ : プロレス
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ブロマガ

紹介文:門茂男主宰のユニオン元会員で、同氏には長年に渡りご交誼を賜った。ライフワークであった「ザ・プロレス365」の未発表を含む取材メモを見せて頂き、その要点を再構成した「門茂男メモ」と数名のプロレス記者から入手した情報をベースに記した昭和プロレスのテーマに迫ります。
ミスター高橋の「流血~」本で白日の下に暴かれたプロレスの実像ですが、単なる暴露もので終わるのではなく、門氏が追及したレスラーの人間性にまで同じように迫りたいという思いです。

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シンタロー

Author:シンタロー
プロレスのテレビ初観戦は小学生前の幼少期に祖父宅で見た力道山プロレス。その当時、一番印象に残っている試合は降参しないと足が折れると技の恐ろしさを足4の字固めで教えてくれたザ・デストロイヤーや、吸血鬼を連想させる噛みつきで相手を出血させるレスラーの怖さを知らしめたフレッド・ブラッシーよりも、幼心にはコミカルな妙技で笑い転げたミゼット・レスラーとのタッグマッチであった。それは祖母が馳走してくれた三ツ矢サイダーの味と共に脳裏に刻まれている。放送日の詳しいことは不明だが、昭和35年8月にミゼット・レスラー(名前は不詳)初来日の記録がある。テレビ観戦がその時期のどの試合であったかは今となっては調べようもないのが残念である。
一般総合雑誌・書籍編集者として多数のプロレスや格闘技関係の企画立案に参画し、馬場、猪木、大山倍達、木村政彦を始め多くのレスラーや格闘家を取材。プロレス界のご意見番・門茂男氏とは編集ジャーナリストの大先輩として長年に渡り公私ともども御交誼を賜った。お会いする度に未整理、未発表の「ザ・プロレス365」のラフ原稿を見せて頂き、同時に門氏が口頭で語った様々なある事件の真相や噂(裏付けが未確認)を氏の了解を得てノートにまとめ「門メモ」として所有する元ユニオン会員。

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