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井上義啓と週刊ファイト~その正体に迫る③~

昭和55年6月に村松友視が「私、プロレスの味方です」を引っ提げて華々しいマスコミデビューを果たした時、井上は異常なまでの競争心、というより嫉妬心と敵愾心が入り交じった感情を顕わにしたと聞く。

妄想プロレスの発案者というプライドをいきなり外野席にいた素人に斬新で哲学的スパイスの香りを放っていた新しいプロレス論を開示され、あっさりと超えられてしまったという忸怩たる思いからであった。

己の文学的才能の無さを呪ったほどであった。地方大学出の文学青年くずれを自称する井上のようなタイプにとって祖父が作家(村松梢風)で慶応ボーイの名門文芸誌編集者というサラブレッドの血統、東京人に対する大きなコンプレックスが影を落としていた。その後村松は作家生活に専念、直木賞を受賞し妄想を書き散らす井上とは格の違いを見せつけた。無論、最初から住む世界、土俵が違っていたのは明らかであった。

井上が執った妄想プロレスの源流は前述したようにセメント幻想をちらつかせるギミックである。週刊ハンデ、大阪ハンデ、取材ハンデ、経費ハンデ、人員ハンデ、馬場からの冷遇という無い無い尽くしでは日刊紙のような記事作りは不可能であるし、意味を成さない。週刊誌的切り口が要求され、当然その行方にはインサイド・ストーリーに視点を置いた構成に行き着く。

日刊紙の東京スポーツが結果報道に重点を置く紙面構成と違い、週刊ではその結果の背後関係を考察する雑誌的センスや視点切り口がポイントとなってくる。つまり妄想を働かせるスペースが生じてくるわけである。井上が夕刊紙担当時代に培った発想の原点がここでも有効に機能、発揮したわけである。

当時もプロレスには常に八百長論議がつきまとっていた。ファンの大方の心理は「スポーツではないのは承知だが全部がヤラセのシナリオ試合でもない、時にはセメント試合もある。グレイゾーンの胡散臭いモノ」といった見方であった。そうした読者が抱くイメージに擦りようように井上がモチーフとして使用したセメント幻想はその都度、形を変え照射角度も変化し膨らませて読者の脳裏に入り込んだ。今風に例えるならマインド・コントロールの出来損ない、といったところか。

その典型的パターンはこうである。プロレスはグレイゾーンの競技であることを認める姿勢、理解を示す。目線を読者と同方向からプロレスを語ることで、味方、同士の意識を擽るわけである。勝ち負けが事前に決まっている試合に妄想、所謂脚色を施し、本来は単なる八百長試合でしかない現実から逃避、健忘させグレイゾーンの含みを残し新しい肥大したイメージを想起(錯覚でしかないのだが)させる脚本を化しそれを提示した、というのが井上流妄想プロレスの正体の本質であった。

プロレスは勝敗の結果が出てからが始まると言われてきた。負けたその背景にはどのような事実が散らばっているのか? ジグソーバズルのように一片一片を拾い集め、足りない欠けた部分を妄想で埋めていこうという所作である。これはあくまでプロレスがグレイゾーンで煙幕が立ち込めていたから楽しめた一種の推理ゲームのようでもあった。煙幕があると錯覚していたため、妄想は変化自在にエスカレートしていく。しかも永遠に正解の無いスパイラルである。

この頃に井上が生み出したフレーズがある。「プロレスは底が丸見えの底なし沼」である。「プロレスは八百長丸出しの小学生でも筋書きが見えてしまう最低の競技だが、その一方でセメント試合の殺気、緊張感はの他の格闘技を凌駕する凄みを持った競技であり、奥は深い」と言いたかったようである。

少ないとは言えセメント試合が生じていた時期まではこのフレーズも一応の説得性が保たれていたと思う。馬場、猪木の確執が裏切りや反駁を生み周辺の親派レスラーを巻き込みながらセメントが発生した。正しくは猪木をゾーンの中心にして発生したというべきか。

この時期、井上ロジックでも誤魔化せない仕掛け(アングル)があった。それは馬場がインターナショナルの防衛戦前に行われる二番手猪木を噛ませ犬、つまり負け役をシングル戦で起用し、間接的に馬場のエースとしての強さを証明させるエテ公役を演じなければならなかったことである。

馬場のインターに挑戦するのは外人エース、トップの役回り。二番手猪木としては善戦はしても力足りず惜敗というパターンである。エース馬場にファンは必勝の声援を送り、猪木の分まで復讐を頼むいったと期待感を盛り上げシリーズ最終決戦にピークを迎えるというシリーズの流れ。プロレスには欠かせない古典的な仕掛けである。

満天下のテレビマッチのシングル戦で負け役を演じなければならない、しかも馬場の肥やし役という恨みからか、幹部連中に語気鋭く攻め寄った。「インターチャンピオンなら台本試合ばかりでなく、セメントで勝たなければ先生(力道山)に顔向けできない! 先生の偉業に泥を塗る気か!」と批判のボルテージは沸点に達する勢いだった。

こうしたアンチ馬場グループの進言(脅迫?)が受け容れられ昭和43年6月、馬場はボボ・ブラジルのココバットの前に沈み、インター王座を明け渡した。馬場が日プロ時代に王座から引きずり降ろされたのはこのボボ・ブラジルとジン・キニスキーの2人であった。

常勝ストーリーがファンの間でも飽きられてきていたことを意味している。馬場蹴落としの野心は益々膨張し、それを実行に移す力も蓄えられつつあった。その背景には猪木人気の支持、拡大があったのは言うまでもない。

このような仕掛けは平成プロレスの今でも健在である。勝つことが許されず「馬場の引き立て役をいつまで務めなければならないのか!」この不満が新日プロ結成の源流にあったのは確かであろう。馬場と猪木との確執は猪木の一方的怨念から生まれたものであった。

プロレス界における先輩後輩の年功序列は侵すことのできぬタブーである。先輩に華を持たすことが不文律であった。この序列を飛び越えるのは当時は奇跡に近かった。万年二番手の猪木はいつまでたっても馬場の地位に並ぶことは許されなかった。人気面では互角、それ以上の評価を得ていても馬場に失点がない限り、万年2番の位置は変わりようがなかった。その葛藤が時にはプラスにもマイナスにも触れた。

その確執も猪木、馬場それぞれが外に飛び出し自らがお山の大将(新日、全日)に収まることでセメントが無くなると思われていたが、猪木イズムの流れを汲む新日本では猪木とその弟子たちとの覇権争いポスト猪木の座を狙いセメントが生き続けていた。だがそれも猪木から新日の実権が離れ第一戦から引くのと同じようにして消えていった。

そして平成。セメントの香りさえ悪臭とみなし消え去った今の学芸会プロレス。WWEが株の上場に伴い厳しい会計検査や業務内容の告知を株主にディスクロージャーするに至っては、これまでのように臭い物にはフタでは通用せず、プロレスは俳優が与えられた配役でブロードウェイ・ミュージカルを行うのと同じでレスラーが決められた配役(勝ち役、負け役)を演じる八百長ショーであると正式にアナウンスし白日の下に曝されたことの影響は大きかった。黒船の来襲である。

同時に公開されたプロレスの裏側を追ったドキュメント映画「BEYOND THE MAT」、それに呼応するように発売されたミスター高橋の暴露本。それぞれが強力なカウンターパンチとなって日本のプロレス界を襲い、人気を奈落の底に突き落としていった。(別稿を参照)

黒船来襲、ミスター高橋の造反の前では井上が見せた手品も底が浅くそのトリックがバレてしまい、ファンは一気に冷めていったようである。先述した井上のフレーズも「プロレスは底が丸見えのただの腐った沼地」と書き換えられたのは皮肉であった。

日本のプロレスでは未だプロレスは「八百長ショー」とは各団体とも正式に広言できないでいる。力道山が紹介した疑似セメントの影響、いや呪縛から逃れられないでいるようである。米国のように八百長を表に出さず、曖昧に誤魔化しエンターテイメントショーの部分を強調する今の運営手法は米国の焼き増しに過ぎず、やはり米国に比べ、どの選手も中途半端で役不足は否めない。

高額ギャラ制度、社会保険や医療補償のバックアップ体制を早く築くことが肝要であろう。でなければ全力ファイトには結びつかない。ただの三流八百長ショーでしかない。子どものファンは熱狂しても去った大人のファンは戻って来ないし見向きもしないであろう。

今のプロレス界は深刻な人材難を迎えている。プロのスター選手に憧れるという動機が持てないからだ。人気もマイナーで低報酬、地位も社会的ステイタスにも無縁な世界に成り下がってしまっている。プロレスラーに夢が託せない時代になってしまっている。有望な格闘技界のスター候補生はプロレスには見向きもしない。昨日まで素人だったフリーターや学生プロレス上がりばかりではお先真っ暗としか言いようがない。

年々、日本の青少年は体力向上をみせているが、驚くなかれプロレス界だけが平均身長が下がっている競技は他にないのである。有望な未来のヘビー級スター候補生がいない現実、関係者は真剣に考えるべきことだ。

プロレスは世界中どこへ行ってもプロレスである。馬場が猪木プロレスはストロング・スタイルとファンから讃えられ自分のプロレスはショーマン・スタイルと小馬鹿にされていることに強い憤りを感じていた。「猪木のプロレスはただ自分だけエエカッコをしたがるだけじゃないか。プロレスはプロレスなんだ!」と周辺に吠えていたと言う。

今となってはこの馬場の発言は正しかったとファンは納得している。米国のプロレスもネパールのプロレスも、そして日本のプロレスも同じカテゴリーに属す競技であるのは自明の理。だから米国人レスラーが裸ひとつで日本のマットに上がり、日本人レスラーが米国マットで活躍できるのである。当然の帰結だ。

台本があるからそれに合わせて身一つで世界中のマットに安心して上がれるわけである。この台本に沿った仕掛けや演出は興行師(ブッカー)が色々と仕掛けを考案してくれる。時には自らが進んで台本に絡んでいく積極性が成功への早道でもある。

妄想プロレスの発案者、井上義啓は2006年に他界した。それは同時に妄想プロレスを埋葬するフィナーレ、墓碑銘の告別でもあった。


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井上義啓と週刊ファイト~その正体に迫る②~

井上が名勝負として挙げた猪木VSジョニー・バレンタイン戦についてファイト誌上ではこう記している。

「―ありふれたプロレスの定規で測るとなると、一も二もなく猪木~バレンタイン戦ということになる。それが私にプロレス記者を続けさせた。藤波が、タイガー・マスク(引退)がプロレスに情熱を燃やして飛び込んできたのと土台は同じである。―」

これを読んだ読者はこの試合がどのような名勝負であったか想像を巡らすことができるであろうか。筆者にもこの文面からは何もイメージを描くことは出来ない。井上信者がご託する「活字プロレス」とは所詮、こんな程度のレベルでしかない。

東京発行の全国紙に比べれば週刊ファイトは大阪の一地方紙でしかない。しかも日刊ではない週刊というイレギュラー。関係者に対する認知度はワンランク下という扱いであった。取材のハンデもあり、井上が執った方針が人気トップで誰もが追い回す馬場では、同じ土俵に立てない不利を熟知していたし、その環境下で社の売り上げ、販売成績を出すことは不可能と判断したのであろう。

これからのプロレス人気を牽引していくスター性を猪木に嗅ぎ取り、猪木プロレスを支持することで自分の境遇をも変化させる触媒として託した要素が強い。井上信者がご託する「活字プロレスの始祖」はイコールただの「妄想プロレスの発案者」でしかないが、その持ちコマとして白羽の矢が立ったのが猪木であったわけである。

それは正解であった。ギャンブルとは無縁の井上が賭した「猪木」が大化けしたのである。その妄想プロレスを更に輪を掛けて若い素人ファンを誑かしたのが、井上に拾われたターザン山本である。形の上では継承には違いないが、負のマイナス面を見よう見まねでマネした程度にすぎない。

30歳過ぎても定職に就けず場末の映画館で悶々とアルバイト生活を送っていた山本は既にバツイチの子持ちでその境遇に井上は哀れんだようである。年齢が食い過ぎている、記者としてモノにならないと社内では反対の意見が多かったが、後ろを振り返っても後がない社会の下層で燻っていた分だけ、そのハングリーさに賭けてみたと後に語っていたという。

しかし山本は長年プロレス界に身を置きながらこれほど人望の無かったギョーカイ人も珍しい。飼い犬として貢献の大小の差こそあれ、それなりの痕跡を残すものだが、山本には皆無であった。人には毀誉褒貶がつきものだが山本には「毀」「貶」の二文字しかなかった。かつての週刊プロレス時代のスタッフ関係者はこう言う。

「競馬狂いが2度の離婚の原因。赤ん坊のミルク代すら馬券に代えてしまうほどのビョーキです。ベースボールマガジン社は水道橋にあるが、ここは後楽園馬券売り場とは目と鼻の距離。毎週土・日になると編集部ではなく馬券売り場に入り浸ってる始末でしたね。金銭にまつわる黒い噂も絶えませんでしたよ。

結局、売り上げが保たれていれば幹部も山本のデタラメを黙認、我慢してましたが長州、前田から取材拒否で部数激減。すぐさま首斬り用の子会社に山本を飛ばし窓際に置く露骨な左遷人事。さすがに会社から不必要、ゴミ扱いされれば山本も退職せざるを得ないでしょうね。最後は石もって追われる感じでミジメでしたね。

仮にも編集長だった男ですが、部下からの信望はゼロ。退社する時も同情の声があってもよさそうなものですが、むしろ陰で拍手してましたからね。考えれば可哀相な人間ですね。社内では四面楚歌で悩みを打ち明けられるような友人もいなかったですよ。その後のフリー生活でも年下の文無しフリーター達とつるんでいることが多いと聞きました。同年配で付き合っている者っていないんじゃないかな? まずまともな大人は付き合わないですね。

その後プロレス界からも追放されカネに困りネタも無く切羽詰まって出した本がこれまでの馬場とのタカリ振りや癒着を告白した最低のモノでした。家にカネを入れない山本にカミさんは我慢も限界だったようで他にオトコを作って家から逃げてしまった。

そのオトコというのが部下であった鈴木です。山本がカネを渡さないことで相談に乗っているうちにデキてしまったというよくあるパターンですよ。カミさんというのが長州力の●×をやっていた元ヤンキー姉チャンでその後、山本と長州は争うわけですが、偶然でしょうが何やら因縁めいたものを感じさせる話ですよ」

今では場外馬券売り場で当たり馬券を拾う浮浪者同然の生活に身を堕としていると聞くが、井上は草場の陰で何を思うのであろうか。「山本を採用したのは一生の不覚、失敗であった」とでも語るのであろうか…。

話を戻そう。
馬場は古いプロレスの異形の残滓でしかなかった。地方では「化け物」見たさに会場に足を運ぶファンは多かった。だがセメント勝負が苦手でチキンハートと陰で哄笑されていた馬場プロレスは何れ朽ちると予測した井上の判断は正しかった。

お化けはお化けでしかない。馬場は後に語っているがプロ野球時代に脳下垂体腫の手術を受けたことのある巨人症の畸形であった。これも有名な話であるがやはり大洋ホエールズ在籍時に宿舎の風呂場で転倒して左ひじ軟骨を傷め上腕二頭筋が付かない貧相なアンバランスの体躯をファンに見せるしか術はなかった。209㎝の巨体を通常人と同じスピードで動かせれば、それは脅威であるし、何ものにも勝る武器であった。しかしそのピークは意外と短かった。

考えてみれば馬場のプロレスは至って平凡でしなかった。筋力が劣っていたため、絞める、固めるといった格闘技の基礎がダメで見映えだけの派手な空手チョップやキックだけで、それが馬場が使うと脳天唐竹割り、32文ミサイルキックに名が変わり、一撃の必殺技に変容した。通常人と変わらぬスピードを保てていた若い一時はそれが豪快でもあった。前座時代に猪木がセメントで馬場に1度も勝てなかったのはこうした身体能力のキャパの違いからであったのは確かであろう。

だが巨体は朽ちるのも早い。ただの単発ドロップキック、スピードもなく切れもない。蹴り上げるではなく尻が沈み低空飛行、よく見れば片足しか当たってなかった。つまりは16文の出来損ないキック。これでカウント3では納得できない不満を持つファンが次第に増えていった。井上は考えた。「いずれ(この仕掛けは)飽きられる」と、冷徹な目で馬場を見つめていた。巨体が武器であった時期は短く、巨体がハンデになっていく様をじっと見つめていた。

余談になるが1972年2月、名古屋のホテルで心臓麻痺のためルイス・ヘルナンデスが急死。遺族の希望で日本で荼毘にふせられることになり、日プロの幹部連中が参列した。その中に馬場の姿もあった。しかし太り過ぎた巨魁は棺に入らず、手足の関節を折って畳むように強引に押し込んで火葬炉に入れた。この時、馬場は思ったという。
「こんな恰好で焼かれるのは御免だ…」

馬場の場合、特注棺が間に合わず遺体は布で包んだだけの状態で火葬場へ運ばれ、荼毘にふされた。ルイス・ヘルナンデスと同じ運命を辿ったのは橋本真也であった…。レスラーにとって巨体は財産であるが、現実社会に目をやるとそれはコンプレックスの塊という一面も併せ持っていることが多い。

テレビ技術の進歩がプロレスのウソや欺瞞を次々に意図とは関係なく暴いていった。スローモーション、リプレイ、ハンディカメラといった最新技術がこれまでは闇に隠れていた部分を次々にお茶の間に晒け出していったのである。当たってもいないドロップキックにオーバーに倒れる姿、アップ画面が右手に持ったカミソリを映し出す、馬場がコーナーポストに上がりニードロップを放つ時、失神しているはずのコックスが薄目をあけて体を受けやすい位置に動かす姿、沖識名が耳元で何かを喋っている姿、セコンドの小鹿が坂口の額をカミソリで切っている姿等々不自然な光景がやたらと目につくようになったのも不器用なレスラーが多かったと言う反面、テレビ技術の日進月歩がプロレスのインチキ性を次々に露呈していったと見る方が正しかった。

この被害を最大限に被ったのがエースであった馬場であろう。筋力が無くスピードが衰えた馬場のファイトでは観客に力強さを感じさせることができなくなり、ただの「ウドの大木」…なれどいつも常勝する姿に不自然さを感じるファンの疑念が増殖していった。勝利の納得性、説得力が保てなくなったエース、チャンピオンはある意味、悲惨である。こうしたファンの声に敏感に応えたのが二番手の猪木であったのは当然であった。いずれ馬場を蹴落とすという野心満々の猪木は親派グループの結束を固め、レフリーのトルコを先導に馬場批判のボルテージを高めていった。

馬場時代の終焉をいち早く感じ取った井上は力道山のようなファイト剥き出しのタイプで時にはセメントでも立ち向かえる覚悟もテクニックもある猪木プロレスが中心になると踏んだようである。この時はまだ言葉は生まれていなかったが、後に付けられたのがストロング・(スタイルの)プロレス、猪木プロレスのキャッチフレーズとなった代名詞だ。断っておくがこの言葉の創始者は井上ではない。

妄想を形成させるにはいくつかのファクトとロマンが不可欠である。セメント神話幻想を託すアイコンの猪木にはカール・ゴッチの愛弟子という恰好のファクトが輝いていた。この事実が無ければ読者に対して説得力もないし、関心、支持もされなかったに違いない。井上は猪木に憑依し猪木マジック、猪木ギミックの代弁者として妄想プロレスのロジックを完成させていったのである。そして―。
(次回へ続く)

井上義啓と週刊ファイト~その正体に迫る①~附記/馬場の米国武者修行時代

関西発行のタブロイド版週刊ファイト(1967年創刊)は特異な存在であった。これと並びプロレスファンが忘れられないのが名古屋発行のレジャーニューズ(名古屋タイムズ)であろう。週2回という変則の発売ながら門茂男の連載コラムが掲載され欠かせない情報源であった。この門番を担当していたのが(安田)拡了というのも知られざる事実である。

週刊ファイトの発行元は新大阪新聞社で新聞社と名が付くが実態は零細企業そのもので、専門夕刊紙を発行していたが赤字経営が続き身売り説が日常の挨拶代わりという状況下であった。ここで少し当時の大阪夕刊紙の実情に触れて置きたい。

平準化され関西特有の文化や個性が薄れる中で独特のコテコテ文化の一つの象徴がこの夕刊紙戦争であった。「大阪新聞」「大阪日日新聞」「夕刊新大阪」「関西新聞」「新関西」が鎬を削り紙面トップは各紙共暴力団・山口組と一和会の抗争関連事件や性犯罪等の三面事件ネタで他はエログロ芸能ゴシップという紙面構成で毎夜埋め尽くされていた。

週刊誌で例えるなら週刊実話、アサヒ芸能がそうした編集方針で毎週その手の記事で埋まっていたことを覚えている方もいるに違いない。その夕刊紙版だと思えば分かりが早い。

そうした抗争事件も暴対法の強化で厳しく警察の監視下に置かれ沈静化、同時に東京資本の「夕刊フジ」「日刊ゲンダイ」の進出で大阪の夕刊紙は部数激減、加えて内紛騒動や脆弱な経営基盤が響き、ついに2002年3月31 日で休刊した「大阪新聞」を最後に消滅という運命を辿った経緯がある。

週刊ファイト初代編集長として抜擢されたのが夕刊紙上がりの井上義啓であった。井上の下には時代の変遷はあるが井上譲二(フランク井上)、山本隆司(ターザン山本)、金沢克彦(GK)といった実力はともかくもプロレス記者が育った。

プロレス草創期には門茂男(後の日本プロレス・コミッション事務局長)が内外タイムズ、東京スポーツで健筆を振るい、愛弟子でもあった桜井康雄、山田隆、竹内宏介といったプロレス媒体に影響力を持つ者を輩出したのは偶然の一致ではあるが、興味深いプロレス村の一コマである。

小遣い稼ぎ程度しか期待されていなかった週刊ファイトは意外にも健闘し新大阪新聞の屋台骨を支える大黒柱にまで駆け上った。人件費もしばらくは井上一人、経費も最小限という収支バランスが飛び抜けて優れていたことに起因する。

創刊された時代(1967)はプロレス人気も上昇の途にあったことも見逃せない。全てが追い風であった。東京プロレスも破綻し猪木は日本プロレス(日プロ)に復帰。BIコンビという日本プロレス史上最強人気のタッグとして八面六臂の活躍でフル稼働。両輪として盤石の日プロ土台形成に貢献したことは歴史が物語っている。

国際プロレス(国プロ)も誕生し、日プロから冷遇されていた井上は国プロの情報や女子プロにも紙面を割き、裾野のファンを拾い集めた編集姿勢は苦肉の策とは言え功を奏した。国プロは観客動員数では日プロと比ぶべくもないがTBSで全国放送され視聴率的には20%を超える健闘を示していた。プロレス二団体時代の到来であった。組織を大きくするには好敵手、ライバルが必要というが、日プロにとってはまだライバルの肩には並ぶ存在ではなかったが、その圧倒的格差が余裕を生じさせ共存関係が形成されていった。

そしてテレビを通じプロレスファンは確実に増えていたのである。開局間もない東京12チャンネル(テレビ東京)でもアメリカの古き良きプロレスを「ファイトアワー」(1968年11月30日スタート)の題名で土曜日20時というゴールデンタイムに流したことでも理解できよう。視聴率も10%を叩き出し同局の看板番組と言われるまでに育った。その貢献には解説・田鶴浜弘、実況・杉浦滋男の名コンビの話術の妙が大きかったと思う。

このコンビで思い出すのが同じ12チャンネルで1968年12月5日から1970年3月26日まで放映された女子プロレスでそれも忘れてはならないだろう。ファビュラス・ムーラ対小畑千代の世界戦は22.4%という高視聴率を叩き出したのである。男子も女子もプロレスは常連人気番組であったのである。今思えば隔世の感を禁じ得ない。

「ファイトアワー」では馬場の武者修行時代の姿も映し出された。高下駄に田悟作タイツの上から相撲の廻しを着け、どてらを羽織り坊主頭のちょびヒゲ姿で登場する様は当時のマネージャー役であったグレート東郷の恰好と同じであった。

コールされたリング名は「ショーヘイ・ババ・ザ・モンスター」であった。リング上で四股を踏み塩を撒く馬場の姿は今となっては貴重であろう。未開の国・ニッポンから来た「化け物」のヒール人気は絶大であった。当時の米国のプロレス雑誌では「生傷男」ディック・ザ・ブルーザー、「殺人狂」キラー・コワルスキーと並び「東洋のフランケンシュタイン」馬場が世界の3大悪党として紹介されていたのである。

馬場のリングネームがモンスター(フランケンシュタインを名乗っていた時期もある)であったようにアンドレ・ザ・ジャイアントもデビュー当時のリングネームはモンスター・ロシモフと名乗っていた(このリングネームで国際プロレスに出場している)。1990年4月13日、全日のマットでこの「化け物」タッグが実現したが、それも何かの奇縁であったのだろうか。

「ヒロシマの原爆投下で放射能を浴びたジャップの子孫がモンスターに畸形してアメリカに復讐にやって来た!」といったような宣伝PRがそのヒール人気に恐怖の色を添えていた。そのピークが1964年2月に記録されている世界3大タイトル連続挑戦である。

2月5日、6日のNWA(ルー・テーズ)、2月17日のWWWF(ブルーノ・サンマルチノ)、2月28日、3月20日のWWA(フレッド・ブラッシー)でテーズとの2連戦とサンマルチノ戦との3試合のギャラは1万4千ドル(当時の換算で504万円)だったと資料に残されている。

馬場が力道山没後、真剣に米国マット界を主戦場にするか、旅行代理店をやるか逡巡していたのは理由があった。小うるさい舅だらけの日本マット界に戻れば苦労、遠慮が絶えないと不安を覚えたことは後になって的中することになる。それに加えマネージャー役であった「守銭奴」グレート東郷のギャラのピンハネも発覚。金銭面に狡く先輩面を吹かすだけの態度に嫌悪、憎悪だけだったと後に語っている。そして、どうしても帰国しなければならない理由に力道山に貸し付けた借金1万5千ドル(540万円)の回収があった――。

井上義啓は猪木信者の一人と言われている。自身もベストマッチに東京プロレス時代、1966年10月12日の対ジョニー・バレンタイン戦だとファイト紙上で語っている。猪木がアントニオ・ドライバーを場外で放ち31分56秒でリングアウト勝ちを収めた試合として記録されている。この選択には井上の深謀遠慮の気配が感じ取れる。

天の邪鬼の発露でもあるが、誰もが語る凡庸な名勝負ではなく、そしてこの事が肝要であるが、テレビマッチでもなく、その試合を知る者は会場に足を運んだファンだけという極めて限定された状況下であるという点。加えて何人のプロレス記者が駆けつけたかという点も大きな動機ではなかったか。

当時の一線級記者は東京プロレスの取材を遠慮、新人なり遊軍の二線級が現場に派遣されたと聞いている。日プロ親派記者は同幹部連中からは露骨に圧力が掛けられたようである。日頃の飲み食い接待や小遣いで飼い慣らされたズブズブ関係の記者は言ってみれば飼い犬みたいなもの。番犬の役目を果たさず飼い主に噛みつくことはギョーカイの寄生虫として許される事ではない。

船出間もない海のモノとも山のモノとも分からぬ東京プロレス。そのトップは博打狂で、経営感覚はゼロに等しい。団体運営もこれからという段階で早くも金銭トラブルの噂が流れ暗雲が垂れ込めていた。日プロから公金横領で告訴され追放された豊登プロレスを、本気で支持サポートしようとするプロレス媒体は皆無で、大半が様子見、お手並み拝見のスタンスの取り方であった。だが井上は敢えて火中の栗を拾うべく、その燎原に分け入った―。
(この稿、続く)

テーマ : プロレス
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紹介文:門茂男主宰のユニオン元会員で、同氏には長年に渡りご交誼を賜った。ライフワークであった「ザ・プロレス365」の未発表を含む取材メモを見せて頂き、その要点を再構成した「門茂男メモ」と数名のプロレス記者から入手した情報をベースに記した昭和プロレスのテーマに迫ります。
ミスター高橋の「流血~」本で白日の下に暴かれたプロレスの実像ですが、単なる暴露もので終わるのではなく、門氏が追及したレスラーの人間性にまで同じように迫りたいという思いです。

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プロフィール

シンタロー

Author:シンタロー
プロレスのテレビ初観戦は小学生前の幼少期に祖父宅で見た力道山プロレス。その当時、一番印象に残っている試合は降参しないと足が折れると技の恐ろしさを足4の字固めで教えてくれたザ・デストロイヤーや、吸血鬼を連想させる噛みつきで相手を出血させるレスラーの怖さを知らしめたフレッド・ブラッシーよりも、幼心にはコミカルな妙技で笑い転げたミゼット・レスラーとのタッグマッチであった。それは祖母が馳走してくれた三ツ矢サイダーの味と共に脳裏に刻まれている。放送日の詳しいことは不明だが、昭和35年8月にミゼット・レスラー(名前は不詳)初来日の記録がある。テレビ観戦がその時期のどの試合であったかは今となっては調べようもないのが残念である。
一般総合雑誌・書籍編集者として多数のプロレスや格闘技関係の企画立案に参画し、馬場、猪木、大山倍達、木村政彦を始め多くのレスラーや格闘家を取材。プロレス界のご意見番・門茂男氏とは編集ジャーナリストの大先輩として長年に渡り公私ともども御交誼を賜った。お会いする度に未整理、未発表の「ザ・プロレス365」のラフ原稿を見せて頂き、同時に門氏が口頭で語った様々なある事件の真相や噂(裏付けが未確認)を氏の了解を得てノートにまとめ「門メモ」として所有する元ユニオン会員。

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