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【「力道山vsルー・テーズ戦」の沖縄ドサ回り「セメント・マッチ」に秘められたプロレスの深奥~公式記録の誤記に隠された深層を検証】

ルー・テーズが昭和32年10月に来日し、7日東京・後楽園球場、13日大阪・扇町プール特設リングでNWA世界タイトルマッチを開催したことは別項で詳しく述べた。この後に行われた地方巡業、15日=福岡スポーツセンター、16日=広島市民球場、17日=神戸王子体育館、19日=名古屋市振甫特設リング 、21日=仙台市評定河原球場特設リングの後、沖縄那覇市(バスターミナル特設リング)に移動し2試合に出場した。

以下がその公式記録として残っている。だが真相は全く異なっていたのである。この当時、沖縄は米軍統治下にあり、本土の日本人はパスポートが必要であった。観衆は沖縄在住の者が大半であったが、基地関係者も目に付いたはずである。なにしろアメリカ兵にとっては久方振りに見る祖国の英雄ルー・テーズを生で見るチャンスであったのである。

【誤記された力道山&ルー・テーズ戦の公式記録】
10月24日  沖縄・那覇市久茂地特設リング 観衆1万3千人
▽?分3本勝負
▲L.テーズ、D.プレッチェス(1-1)力道山、豊登▲
1.○テーズ(フォール、タイム不明)豊登●バックドロップ。
2.●プレッチェス(フォール、タイム不明)力道山○空手チョップ。
3.(両者カウントアウト、タイム不明)

10月25日  沖縄・那覇市久茂地特設リング 観衆1万5千人
▽?分3本勝負
▲L.テーズ(1-1)力道山▲
1.テーズ(体固め、15分)
2.力道山(体固め、25分)
3.(両者カウントアウト、タイム不明)

先ずは試合から数年を経た後に語った力道山のコメントを掲載する(以下の証言は門茂男著「ザ・プロレス365」と「門メモ」より引用)。何より驚愕するのが未来を予言し、それがモノの見事に的中させている先見の明に脱帽せざるを得ないところであろう。

「何年か? 何十年経った時、力道、豊登組が沖縄本島でテーズ、プレッチェス組と闘い1対1で勝負つかずの引き分けだったという記録を見た時、100%の人は日本組の1本はこのわしが外人チームのヘルパーのプレッチェスをやっつけて取ったもので、失った1本はわしの助っ人役の豊(登)がテーズにKOされたものと思うだろうが、あの時のテーズはそんなものではなかった!」

そしていよいよ話は核心に触れてくる。
「タイトルマッチ、ノンタイトルマッチと一度とて決着を見せなかった那覇の大会の初日、テーズは豊登に1本取られた。取られたというより、わしには豊登に取らせてやったとしか見えなかったが…。とにかく、あの試合であげた1本はわしではなく豊(登)よ! そして1本取られたのも豊(登)だった。

豊(登)をやっつけた相手は誰だと君は聞くのか? 豊(登)がテーズから1本取り、そして1本取り返されたのでは、彼が日本チームのエース役になってしまうではないか? お前さん(筆者注=門氏のこと)は何年、プロレスの試合を見ているんだ!」

不機嫌さを顔に出した力道山だったが、その機嫌が直った後に語ったところによると、2本目で豊登を倒しフォールを奪ったのはダニー・プレッチェスであったと証言している。つまり冒頭に掲載した公式記録に残っているデータは真逆であることが理解できよう。沖縄決戦の試合は2試合(タッグとシングル)とも61分3本勝負であったこと。1試合目1本目はテーズが豊登に勝ったのではなく負けたこと。

2本目はプレッチェスが力道山に負けたのではなく豊登に勝ったこと。ここでイーブンの1-1である。決勝の3本目は両者カウントアウト、時間不明とあるが実際はフルタイムの引き分けであったことが語られている。テーズの最終戦でもあった2試合目のシングル戦も同じく1-1の後の3本目は時間切れのドローで終わったのである。

上記の(誤記された)公式記録を思い浮かべながら耳を傾けて欲しい。次に証言するのは今回の沖縄2試合のレフェリーを務めた沖識名の発言である。要点をまとめ箇条書きに整理してお伝えする。最初は沖が聞き出したテーズのプロレス哲学を織り交ぜながら滔々と語っている。

「タッグ形式はシングルとは違い見せる要素の強い形式。コンデション、オフェンス(攻撃)が良くて絶妙のタイミングでフォールに持ち込んで来たらウィンナーとしてのチャンスを与える。それがこの日の豊登であった。力道山とでは意地の張り合いとなり、セメントに発展して決着を付けなければならなくなる。

それはシングルマッチでの試合運びだ。フォールされる態勢のテーズは自分(沖識名)にクイック!、クイック!と叫びカウントを促した。ワシ(沖)はその指示に従い躊躇うことなく3カウントし豊登の勝利を宣言した。テーズも助っ人としての豊登を評価していたので素直にフォールを許した」という主旨の発言であった。

では2本目はどうしてテーズが本領発揮して豊登を沈めなかったのか? 世界チャンプとしてのプライドが許さないはずではないか? という門氏の疑問に答えるように沖識名が持論の推察を語る。

「プレッチェスは世界戦(テーズvs力道山)を捌いたレフェリーでもあったのを覚えているだろう。テーズはあの時の公平にフルタイム仕切った(プレッチェスの)レフェリングを讃えていたのは知っているか? そのことに応えたかったのだと思う。1本目を(テーズが)豊登から取られ、2本目を(テーズが)豊登から取り返せば、3本目はプレッチェスが力道山に沈められるしか手が無くなる。お客さんもそれしか納得しない流れになってしまう。

しかし、2本目でプレッチェスが豊登を負かせば、間接的ではあるがテーズ<豊登<プレッチェスという図式がその瞬間に成り立ち、プレッチェスは世界チャンピオンのテーズより強いということになり、プレッチェスは大いに自尊心が誇れたのだと思う。

この流れを最後までキープするためには、決勝の3本目はプレッチェスが負けることもテーズが勝つことも許されない。プレッチェスは何度かアップアップの時にテーズが絶妙のタイミングで助けに入り、フォールから救い敗戦を免れた。テーズ本人も豊登を仕留めるチャンスが何度かあったが、敢えてしなかった。テーズは縁の下の力持ちとして陰から試合をコントロールしていたわけだ。それで両者タイムアップの時間切れドローになったというのが真相だったと思う。

最終戦となるこの日、力道山vsテーズのシングルではあったがノンタイトルのオープン試合であるにも関わらず、1-1の後の決勝の3本目は両者の攻防は死闘そのもの。所謂、強い方が勝つという試合に流れこんでいった。昨夜はタッグながら1本勝ち逃げした豊登の前で盟主・力道山のプライドからして敗北は絶対に許されることではなかった。

一方のテーズにしても世界チャンピオンの意地から、こちらも負けることは許されざることであった。米国統治領でアメリカ兵も多数観戦しているという意識も多分にあったはずである。意地と面子が互角に正面からぶつかり合い、必然的に勝者未定、強い方が勝つセメントマッチに発展、結果、昨夜に続き時間切れのドローマッチに終わるという激闘になったわけだ…」

今のプロレスと比較しても詮ないことであるが、テレビ放映もない地方巡業のドサ回り興行(消化試合)で2試合連続の60分フルタイムのドローマッチなどが行われるであろうか? (しかも決勝の3本目はセメントマッチ!)それだけではない、ノンタイトル戦とはいえ力道山はシングルでテーズと6度に渡って対戦しているのである(沖縄の1試合だけが例外のタッグ戦)。

タイトルマッチ2試合を含めれば都合8試合である! これも今のプロレス興行では考えられないカード編成であろう。改めてプロレスの深い闇の奥底でひっそりと息づく深奥の一端を垣間見た思いであった――。




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テーマ : プロレス
ジャンル : スポーツ

【プロレス黄金期のファイトマネー】~力道山との闘いで3億3千万円を稼いだ”鉄人”ルー・テーズ~

プロレスラーのファイトマネーは興行人気を始め、様々な要因に拠って高低があるが、最近の人気凋落振りを見ると悲惨さを感じぜざるを得ない。インディーの零細団体となればいくつものバイトを掛け持ちし、キャッシュの現金収入はなく、入場チケットが渡されるだけだという。その券を友人、知人、親族に売り捌いて始めてファイトマネーに変わるという「現代女工哀史」である。

未来に夢も希望も持てない情けない現状を考えると、当然、有望な新人も入ってこないし、相撲、柔道、空手といった格闘技界からの大物たちにも無視され、スカウトする資金力もないのが現状だ。入団してくるのは学生プロレス崩れのハンパ者が大半である。大型化する他のスポーツ界と比べ、新人の身長が年々低くなっているのもプロレス界である。それだけ不人気、不作ということである。現役組も本音は引退したくても出来ずロートルになってもプロレスにしがみつくしか術がない高齢化時代の余波は不況プロレス界にも蔓延している。

以前、69歳のマスカラスを俎上に挙げたが、それは日本人レスラーにも言えることである。晩年の力道山は38歳ですでに引退を考えていたという。無論、体力、気力の衰えを感じていたからである。プライドの高かった力道山だけに仮に突然の不慮の死が訪れなくても、引退し実業家の道を歩んでいたに違いない。今のロートル・プロレスラーには何とも耳の痛い話だ。こうしたプロレス凋落の負のスパイラル地獄に陥り悪循環の連鎖が続いている。だがプロレス黄金期はケタ違い、プロスポーツ界の花形であった。ミスター・プロレスと称されたルー・テーズがNWA世界チャンピオン時代のファイトマネーを覗いて見よう。

力道山vsルー・テーズのNWA世界タイトルマッチが初めて行われたのは昭和32年10月7日(東京・後楽園球場)と10月13日(大阪・扇町プール特設リング)であった。入場料は3500円、観客数は東京は3万人、大阪は2万2千人、2万7千人、3万人と新聞各社で発表が違っていた。この時テーズが手にしたファイトマネーはタイトルマッチ2試合で2万5千ドル(900万円)であった。ちなみに現在の貨幣価値に換算すると(昭和32年度大卒国家公務員給与9200円。平成19年度大卒2腫同172200円で≒18.7倍の数式に当てはめると)≒8415万円(=1試合450万円)という数字になる。馬場、猪木の全盛時においてもタイトルマッチ1試合で8415万円を手にしたことはない。まさにプロレス黄金時代の話である。

試合内容を見てみよう。決して物見遊山ではなかったがテーズはNWA世界チャンピオンベルトを持参しては来なかった。NWA幹部が未知なる異国での万が一の不測の事態を考えベルト帯同を反対したと伝えられている。ということは同時に花相撲で負ける気、つまり2試合のタイトルマッチ契約を取り交わした時点で、第一戦では日本の英雄に花を持たせタイトル移動、第二戦で奪還…。三日天下とは言え日本のホームグランドで世界チャンピオンの座に就かせてもらえるのではないかという淡い期待を力道山は内心抱いていたわけであったが、先述した通りベルトを日本に持参してこないことから、それはただの一方的な願望にすぎないことを思い知らされたのであった。

テーズはルールに関しても1本ずつを取り合い決勝の3本目にスパートするという緊張感が薄れる闘いを拒否し、ワン・フォール・マッチ(61分1本勝負=1分の休憩タイム)を要求してきた。このことは日本のリングで日本の英雄である力道山に1本(フォール)の花を持たすことすらも拒否してきたという厳しいものであった。それを知り、力道山はエキサイト。隙あらばセメントで仕掛けるストロング・レスで挑んでいった。

一進一退の結果、時間切れのドローに終わった。しかし実際は正味59分20秒の時ゴングが鳴らされて終了。テーズのハンマーロックに決められた力道山の身の危険を感じたタイムキーパーが気を利かせたつもりで鳴らしてしまったのが真相であった。この試合でいきり立つ力道山の猛攻を躱しながらフルタイム稼働の体力消耗のしんどさを味わったテーズは、第2戦大阪ではオーソドックスなスリー・フォール・マッチ(3本勝負)で行うことを了承した。

この大阪第二戦では1本目がバックドロップでテーズ、2本目は空手の猛攻撃で力道山。決勝の3本目エアープレーン・スピンに出たテーズがマットを5回回った時に力道山がロープを握り二人とも場外へ。無情にもゴングが鳴り響きは両者リングアウトでテーズの防衛という内容であった。

テーズはその他にドサ回りの地方巡業(福岡、広島、神戸、名古屋、仙台、沖縄2試合)にも特別参加した(別項で掲載)。そのファイトマネーも2万5千ドル(900万円)で合計5万ドル邦貨で1800万円(同じく現在の貨幣価値に換算すると3億3千660万円)というビッグマネーを手中に収めたことになる。当時の日本は外貨規制が敷かれており、これだけのドルを調達するのは後援社であった毎日新聞社の枠だけでは賄えず、闇ドルに手を出したのではないかと噂もされていたようだ。テーズは試合オフの時はフレッダー夫人同伴で京都や他の観光(沖縄観光も含む)付きの贅沢で最高級の厚遇饗応を受けた。

この日本遠征でプロレス・マーケットとしての市場性と力道山の手腕を高く評価したテーズと同行していたアル・カルシックNWA会長代理は日本にタイトル使用、管理の権限を約束したとされる(ベルトを持参しなかった負い目もあったという)。それが翌年の8月27日ロサンゼルスで獲得したインターナショナルのタイトルであった。元々このタイトルのベルトは存在してなく(象徴だった)現物は日本で力道山が大枚を叩いて自腹で東京台東区のカップ製造業者に依頼し70万円で作成した。このインターナショナル選手権は実際は30分1本勝負で力道山が勝利したというのが真相のようである。

グレート東郷の政治力、力道山の財力でインターナショナルというタイトルを誕生させた話は別項で述べたいが、とにかくグレート東郷に拠るとこのインターの権利金は力道山1代限りの貸与という条件で2万5千ドル説(900万円)とも5万ドル説とも言われている。当時の交渉人・グレート東郷が絡むと東郷の着服金がいくらか? 成功報酬込みなのか不透明でおまけにドンブリ勘定。実際の正規の金額も不透明で裏金を積んだ金額が提示され、力道山との駆け引きの材料となり、いくつかの説(金額)が生じたようである。ちなみに後に馬場が復活インターナショナルのチャンピオンの座に就いた時に支払った権利金、保証金は5万ドルだったと言われている。

ルー・テーズのプロレス人生に大きな影響を与えたのはこの日本遠征であったのは間違いない。力道山死後も日本のプロレス界と密接に関わり日プロ、国際プロ、新日プロ、全日プロ、UWFと関係を持ちレスラーも馬場、猪木、大木、木村といったトップクラスやその猪木の弟子に当たる高田延彦の売り出しにも一役買い、その生涯の稼ぎは億単位であったと言われている。一方では「守銭奴」グレート東郷と組んで日本プロレス界を牛耳ろうと画策したこともあり、日本マット界でのテーズの威光の大きさは測り知れないものがあった。2002年(平成14年)4月28日、心臓疾患により86歳で死去。テーズが晩年に語った日本人レスラーで強かったベスト3は1位力道山、2位猪木、3位大木で、馬場の名は口に出すことはなかった。

昭和27年2月17日、ハワイでの海外初試合のギャラは10ドルであったと言われる力道山もその生涯で手にしたファイトマネーは一説では20億円だったと言われている。黄金期全盛の当時、プロレスは「打ち出の小槌」であった。

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ブロマガ

紹介文:門茂男主宰のユニオン元会員で、同氏には長年に渡りご交誼を賜った。ライフワークであった「ザ・プロレス365」の未発表を含む取材メモを見せて頂き、その要点を再構成した「門茂男メモ」と数名のプロレス記者から入手した情報をベースに記した昭和プロレスのテーマに迫ります。
ミスター高橋の「流血~」本で白日の下に暴かれたプロレスの実像ですが、単なる暴露もので終わるのではなく、門氏が追及したレスラーの人間性にまで同じように迫りたいという思いです。

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プロフィール

シンタロー

Author:シンタロー
プロレスのテレビ初観戦は小学生前の幼少期に祖父宅で見た力道山プロレス。その当時、一番印象に残っている試合は降参しないと足が折れると技の恐ろしさを足4の字固めで教えてくれたザ・デストロイヤーや、吸血鬼を連想させる噛みつきで相手を出血させるレスラーの怖さを知らしめたフレッド・ブラッシーよりも、幼心にはコミカルな妙技で笑い転げたミゼット・レスラーとのタッグマッチであった。それは祖母が馳走してくれた三ツ矢サイダーの味と共に脳裏に刻まれている。放送日の詳しいことは不明だが、昭和35年8月にミゼット・レスラー(名前は不詳)初来日の記録がある。テレビ観戦がその時期のどの試合であったかは今となっては調べようもないのが残念である。
一般総合雑誌・書籍編集者として多数のプロレスや格闘技関係の企画立案に参画し、馬場、猪木、大山倍達、木村政彦を始め多くのレスラーや格闘家を取材。プロレス界のご意見番・門茂男氏とは編集ジャーナリストの大先輩として長年に渡り公私ともども御交誼を賜った。お会いする度に未整理、未発表の「ザ・プロレス365」のラフ原稿を見せて頂き、同時に門氏が口頭で語った様々なある事件の真相や噂(裏付けが未確認)を氏の了解を得てノートにまとめ「門メモ」として所有する元ユニオン会員。

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