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低迷するプロレス界の復興策は「セメント復活」と「八百長のカミングアウト」である(最終論考・前編)

今年は大相撲で八百長問題が起き、初めて相撲協会側がその存在を認め処分も成されたエポックメイキング的象徴の年であった。これまでは頑強に否定していたものが携帯メールという文明の利器によって白日の下に曝された。加えてNHKでは「BEYOND THE MAT」のアジア版とも言える「ネパールの八百長シナリオ・プロレス」が放送され、ファンの関心を集めた。

改めて2011年を「プロレス八百長元年」と記すべきであろうと思う。低迷する日本のプロレス界を再び隆盛させるにはこれまでの膿みを絞り出しWWEのように公式に「八百長をカミングアウト」し緊張感を孕んだ「セメント試合の復活」を提言したい。個人的には元レスラーや興行関係者、元ユニオン会員数名と話す機会があり、そうした声を聞いた上での結論であることも附記しておく。

「プロレス八百長論」を否定する今の若いファンの姿は昔だと週刊ファイトを愛読するオタクファンというイメージか。暴露本好きで半可通気取り、ミスター高橋本はバイブル的存在である。そうした書物から仕入れた知識を自慢気に披露したがる傾向も共通した性癖である。

「アングル」や「ギミック」といった2000年に公開されたプロレスの裏側を追ったドキュメンタリー映画「BEYOND THE MAT」で紹介された英語の隠語をやたらと使いたがる指向も同じだ。「仕掛け」「筋書き」「台本」「脚色」「打ち合わせ」「ヤラセ」「インチキ」「手口」「合図」「指示」「口裏合わせ」と前後の文脈で細かく分かれる語彙豊富で適切な日本語があるのに、やたらと新しい隠語を使いたがるところは微笑ましい部分もあるが、半可通を気取る背伸びが痛い。筆者もアイロニカル的に使用しているが、面映ゆい感覚を覚える。昭和のプロレスファンが違和感なく使用できるのは「シナリオ」までではないか?

プロレスはショーと認めるが全てが1から10まで筋書きがあるわけではなく勝敗は全て事前に決まっているわけではないと主張する。勝敗が決まってないなら、それは真剣勝負かと問えばそれも積極的には肯定できない、というより全てを八百長とは心情的に認めたくないタイプが多いようだ。

この論はセメントが存在していた昭和プロレスには成り立つ部分があったのは確かである。真剣勝負の凄みは他の格闘競技以上に位置するものであった。この魅力に嵌ったプロレスファンは多い。しかし、そうしたセメントの香りすら悪臭と見なし排除し漂白された平成の学芸会プロレスにはその一片のカケラも無くなったのは残念である。だからであろう、平成のファンは八百長の中から一筋の鉱脈を探すのに必死のようである。

「BEYOND THE MAT」でプロレスの見方に影響を受けたようで大方が以下のよう集約される。「プロレスはショーだけど攻撃で受ける肉体ダメージはシリアス。その痛みは真実である。それは一種の芸術である」といった類である。WWEも認めるように勝敗は事前に決まっており、そのフォールする最終ゴール地点までの起承転結、波瀾万丈のストーリー展開を楽しむエンターテイメントがプロレスの正体である。

ただ日本のプロレス界は各団体とも公式には八百長ショーとは認めない立場を取っている。米国と日本とは違うとファンを誤魔化しているのが現状である。株式上場できないマイナー競技といった面が逆に隠れ簑となり、八百長を隠蔽、ファンの寛大さに甘えている面もある。力道山時代にプロレスは八百長とマスコミは結論付けたが、そのことに触れずにショーの楽しさを全面に出そうという商魂最優先だ。

プロレスは八百長ショーという万人が認めるスタンスを無視しエンターテイメント性の長所のみを強調する各団体の思惑は嫌らしいし、下衆の考えだ。相撲だと八百長は厳しく糾弾され社会的制裁を受けた。スポーツである以上、当然の帰結である。だがプロレスは最初からスポーツを放棄したショーである。ショーであることは全てが事前に決まっていることを意味する。しかしプロレスはこの部分を曖昧にしスポーツ性を含んだショーという底の浅い我田引水のロジックに擦り寄る。プロレスだから八百長は当たり前と声を上げる者がいない、こうした寛容な取り巻く環境が結局、プロレスを衰退させてしまったのは残念である。

プロレスはセル(負け役)とバンプ(受け身)で成り立っていると、これまた馴染みの薄い隠語を使いエンターテイメントの素晴らしさを強調する。ショーではあるが八百長ではないと既に破綻しているロジックを用いることが限界を露呈していることに気づいていないのが致命的である。

コール(合図)が無い試合がありフィニッシュを知らないでリングに上がる試合もある、これこそが八百長否定の根拠になっているようである。この場合の勝者は格上者という法則を無視している。これを世間では片八百長と言うのである。そのような試合は力道山時代から続くもので賞賛するほどのものではない。それなりのトップレスラーの地位を保つレスラーにとって不必要、昨日今日入門したての新米とは違うわけで、驚くほどのことではない。

力道山プロレスにはそうした試合が多かった。筋書き(ブック)も後に証拠として残さぬようにメモの類は厳禁で沖識名の合図だけで試合を作ることが珍しくなかったのである。携帯メールなど言語道断である。無論、勝ち役だけは事前に決めていたわけである。

プロレスが完全な予定調和で収斂される証左にルールとギャラの問題が根幹で通底しており、それを避けては通れない。5カウント以内なら反則行為は許されるというモンキービジネス特有の八百長ルールの存在。

建前の正論で言えばブッチャーのように凶器のフォークででメン玉を抉ることも金的を狙い不具者にすることも5カウント以内ならルール上はOKのはずである。それが本来の妥協のないセメント勝負の非情さ惨さである。凶器使用云々は半ば冗談としても、格闘競技において鍛えようのない、あるいは限界のある人間の急所を相手よりも早く攻撃し致命的ダメージを与えることが勝負の在り方であり、格闘技の原点である。

もう一点は勝者になることでビッグマネーを手中に収めることが成立するルールが適用されない世界(プロレス)ということである。死とも直面し、場合によっては大怪我や再起不能のリスクに見合う金銭的裏付けのない仕事にセメントを仕掛ける意義が見出せないのは人間の正常な感情である。

分かり易く二項対立的に言えば1万円の日当ギャラで不具や片輪の危険が伴う真剣勝負はできぬということだ。だがギャラが1億円であったらどうか? 逡巡し損得の胸算用をする。巨額の報酬が保証されればリスクは覚悟の上と、算盤を弾き真剣勝負を挑む者がいるに違いない。先輩後輩の序列も無視でリングに立つであろう。

それがプロの矜持というものである。このようにセメント勝負とは必ずその背景には、その危険の代償としての報酬(ビッグマネー)が用意されていなければ成立はしないことが理解できるはずである。勝者にはボーナス配当も給付されれば下克上、格付け序列無視の腕自慢達が名乗りを挙げるのは必至であろう。

しかるにプロレスはエンターテイメントのショー世界である。勝つことがビッグマネーに繋がるワケではない。勝つことが意味を成さぬ世界では全てが半可通気取りが好んで使う隠語、ただのジョブでしかないのである。セメント真剣勝負を行なう意義も環境も成立し得ない世界ではただの砂上の楼閣、ただの机上の妄想ごっこでしかない。

アングル、コール、セルが不要のレスラー(試合)は多いがそのことがイコール出来試合でないと錯覚してしまう所がこの手の妄想ファンが陥る陥穽である。それは難しいことではない。道場での日々の練習、日本人同士ならコミュニケーションの意思疎通も細かくできる。平成プロレスの名勝負の必須条件とも言われるハイスパートもタネを明かせば単純である。そして―。
(この稿、次回に続く)

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「新版・プロレス八百長論」補遺・附記

前稿で論じた「新版・プロレス八百長論」の補遺・附記を記したい。内容が多少重複する部分があるが、話を進める上で必要不可欠でもあるのでご了解願いたい次第である。

プロレスはミスター・マリックのマジックショーと同じく似非格闘技ショーのエンターテイメントである。よってスポーツ界で問題となる「八百長」が起きるはずもないのである。勝ち役負け役は興行の便宜上、全試合時間切れ引き分けというわけにいかないわけで、言わばオマケのように振り分けているに過ぎない。

ミスター・マリックのマジックショーほどの満足度には及ばない三流の似非格闘技ショーをそれなりに楽しんでいるファンがほとんどではあるが、中には一部少数ながら勝ち負けはその時の運だとスポーツ面を重要視する錯覚した誤ったプロレス鑑賞法を有すファンがいるようである。見かけは格闘技という体裁を繕っているために初心者が陥る罠みたいなものである。

力道山プロレスの時代にもファン、マスコミを二分する「プロレスはショーか、スポーツか」という論争が起きたことが想起されるところだ。当時の社会のうねりとは比べらくもないが、現在でもこうした不幸なファンを生むことにプロレス界は自戒自省すべきである。

このように勘違いしたファンは勝敗にこだわり一喜一憂し、ミスター高橋本などの暴露本を読むと「裏切られた」という感情を持つのである。レスラーにしてみれば有難迷惑な話でしかない。勝率や勝敗がギャラには反映されないシステムでは怪我を恐れてショーに全力を出して打ち込むことなどはできないと嘆く声も一面では理解できるところもある。

怪我を負った時の医療制度や休場補償制度が整備されているわけでもなく、そうした体力「職場」で誰が全力で演じるられようか。我が身が可愛いのは至極当然であろう。

ましてや最近の不景気不人気。アルバイトをしないと食えない選手もインディーズ系には多い。安いギャラで手抜き試合が多くなるのは必然か。大技をいくつか見せて観客も満足した頃合いを見計らい今日の勝ち役負け役を演じているだけである。それを「弱いレスラー」とレッテルを貼られ哄笑されてはレスラーも悲運である。

サーカスのように全力でショーを演じるのがプロの責務であろうが、勝敗を着けることでショーが終了する似非格闘技ショーでは、その実演者(レスラー)のさじ加減一つで負け役勝ち役を選ぶことでショーが終わることを意味しているわけである。ここが似非格闘技ショーの大きな特徴でかつ演技者と観客との間にギャップを生じさせる欠点でもある。大技も見せてフォールしたレスラーは満足して勝ち役を演じるが、観客はまだまだフォールは早いと納得しないという代表的なケースである。

不満タラタラのファンがそこには放置されるだけだ。レスラーと観客の間に潜むこのギャップがプロレスの弱点であり、不満を抱えたファンが多いショーであるがゆえ、三流ショーのエンターテイメントというレッテルが貼られているわけでもある。

そういうファンを生まないためにも各団体は米国WWEのように正式に「プロレスは似非格闘技ショーのエンターテイメント。勝ち役負け役はオマケです」とカミングアウトすべきなのである。更に一歩踏み込み「次の試合はA選手の勝ち。フィニッシュ技はバックドロップ」と事前にプログラム等で紹介しておくのもちびっ子ファンには歓迎されるかもしれない。

ミスター・マリックが「次の演しものは予知能力マジックで明日の天皇賞の着順を当てます」と前口上を述べるようなシステムなら、プロレスファン以外にも関心を集めるかも知れない。もしかすると低迷を脱する「隠しワザ」になるかも知れないと考える声もある。

選択方式で試合終了時間を当てるゲームを組み込み見事当てたファンにはグッズなり色紙といったプレゼントを贈呈するような思い切ったファンサービスも一興かもしれない。ハッスルの失敗を他山の石としテレビ界で活躍する人気脚本家、例えば野島神司クラスを採用し、毎回波瀾万丈な起伏に富んだ手に汗握るストーリーを提供すればファンに歓迎されるのではあるまいか。

実際、某団体では三流夕刊紙の部長クラスを引き抜き、シナリオ作成の重責を担わせたが奇をてらい過ぎたためストーリーが破綻しファンが引いてしまう苦い歴史もあった。これを教訓とし、これからはやはり餅は餅屋で熟練のプロの脚本家に依頼すべきである。

事ほど左様に思い切った改革がなされないとプロレスの未来は暗いだけだ。いっそシナリオ無しの恐怖のセメント試合という大胆な改革案も昭和のファンには歓ばれるに違いないが、その度胸はあるまい。病院行きはプロレス界の常套文句のフェイクでしかないが、もし本気でセメントマッチを行なうことになれば、正真正銘、毎試合が負傷者続出でレスラーの病院行きが現実の姿になる。



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「新版・プロレス八百長論」~NHKで放送された「シナリオ・プロレス」や相撲界八百長問題、ギャラシステムから探究検証~

テレビカメラの前で見せた「試合のリハーサル」と動きの流れを書き記した「シナリオ・ノート」

過日、NHK-BSで放映された「ヒーローになりたくて~ネパール・プロレス物語~」は舞台がパールの地とは言え、プロレスの核心に触れる興味深い内容であった。プロレスの筋書き(シナリオ)や試合前の選手たちのリハーサルが、テレビカメラの前で公開されたのはこれが史上初ではないだろうか。

力道山は決して後に証拠となるようなシナリオ、メモ類は残さなかった。前回の同場所の興行時の対戦カードやファイト時間、フィニッシュ技を全て頭の中にインプットしていて、変えるようにしていたという。これがプロの矜持であろう。今のように前座からメインイベントまで大技のオンパレードといった「金太郎飴レスリング」は禁じ手であった。

今回の相撲界の八百長問題でも明らかになったが、手順は幕内力士の付き人が支度部屋や通路、便所に隠れるようにして勝ち負けや取組内容を口頭で決めるのが不文律の原則であった。

証拠となるメモ類は厳禁のはずが携帯メールという文明の利器に残され世間に露呈。これまでのように言い逃れることも出来ず、墓場まで持って行くという鉄の掟もあっさりと反古にされゲロ(認める)してしまった。

プロレスでのマッチメイクのシナリオは長年、重役幹部レスラーが組み立て、その指示はレフリーが相手レスラーに伝えていた。それは主に同じ国技館(体育館・ホール)の選手控え室や通路、便所であったが、時々試合中に隠語を使い外人レスラーに指示を飛ばしていた不自然な光景を目撃したファンは多い。

もっともレフリーはリングを降りると外人世話係りを兼務していた。不慣れな日本で満足のいく仕事を演じてもらうべく、陰に日向になって食事から性欲の処理まで面倒をみた。だからシナリオはいつでも時と場所を選ばず伝えられる立場でもあった。

ネパール・プロレスはそういうところが大らかというか、警戒心もなく日本人カメラマンということもあってか?堂々と悪びれる様子もなく試合の流れ、筋書きを書いたノートを見ながらその組み立てを考案していく選手たちをカメラが捉えていた。

「ここで乱入して観客を盛り上げる」と細かに演出プランやアイデアをノートを見ながら、選手たちが口々に練り直しながら試合の流れをまとめ上げていく姿は、ネパールを「日本」に置き換ればプロレスの本質(=似非格闘技ショー)を見事に言い当てた衝撃的かつ画期的な番組であった。

ヒール役(=負け役)のレスラーは警察官のアルバイトで、その職業ゆえからか、同僚たちから悪役を演じることに白い目で見られていることが不満で妻にグチをこぼす。ベビーフェイス(=勝ち役)で出場したいと、試合の筋書きを組み立てるマッチメーカーも兼ねた主役のヒーロー選手相手にボイコットも辞さぬ抗議をするが、結局のところなだめられ渋々説得させられる。

画面では触れてないがもしかするとギャラアップの交渉戦術だったのかもしれない。日本ではこうしてダダをこねることでギャラアップに成功したという話を聞いたことがある。誰もが嫌がる負け役を演じる以上、ボーナス手当を要求するのは絶好の機会だったと拝察する。

こうした光景はいちいち選手名は挙げぬが、構図は日本のプロレス界と一緒である。特に地方興行でのご当地出身のレスラーは地元ファンの前では、良いカッコを見せ勝ち役か負け役でも華のあるオイシイ役を演じたいのは人情であろう。

会場には親兄弟、親戚、友人…世話になった恩師の姿もある。しかもチケットを何枚も買ってくれた大切なお客さんである。子どもの同級生も父兄と一緒に見にきている。その子どもの前で道化役を演じる辛さはいかほどのものか…。

(ガチンコでやればオレの方が強いのに!)この葛藤を乗り越えた先にプロの矜持が持てるのであろうが、勝ち負けの拘りが捨てきれず、挫折しリングを去っていく者も多い。勝敗が全てのスポーツと勝敗は副次的要素でオマケでしかない似非格闘技ショーの違いがそこにはあるのだが、似て非なるその正体を知り自己嫌悪に陥る者は多い。特にアマスポーツ界で鍛えられてきた新人は、真面目であればあるほど葛藤に苛まれ精神を壊す者もいるようだ。

プロレス村は相撲の人情話で有名な横綱・谷風が幕下・佐野山に人情撲(片八百長)でわざと負ける落語の世界そのものがここではしっりと根付いた異空間なのである。そのことを肌で理解できる者とそうでない者とではプロレス界での境遇は嫌でも変わらざるを得ないであろう。

プロレスを元力士の力道山が日本に持ち込んだばかりの当時は、今のファンには信じられぬことかもしれないが、プロレスはガチンコのスポーツとして世間では扱われていたことがあり、NHKや朝日新聞にも試合結果の記事が報道されていたことがある。

それほど、当時のプロレスは真剣味あるスポーツとしてファンに受け容れられていたことが拝察されよう。確かに当時のフィルムを見ると技もオーソドックスでシンプル、かつ重厚感があった。今のような派手でクサいオーバーアクションも少なく、スポーツとしても十分、鑑賞に耐えられる要素が強かった。

観戦する側も最初は当惑したのは想像に難くない。恐らく相撲をベースにしていたはずであろう。そこからプロレスの見方が整えられていった。つまりガチンコのスポーツと錯覚してしまったわけである。それほど真剣味豊かだった証左でファンを責めるべきことではない。素直に選手たちの力量を讃えるべきであろう。だがその事がその後のプロレス界に様々な軋轢を生むことになったのではあるが。

一見、真剣勝負風ではあっても所詮は打合せの上で勝敗が決められていたわけで、そうした矛盾点が時間を経るごとに大きくなり試合内容にも不自然な所が生じてきた。さすがに識者の大人の眼をいつまでも誤魔化しきれなくなり、大手マスコミはプロレスはショーと判断、結論付けた。当時は運動部・記者クラブ分科会もあったようだが、そこからも閉め出されスポーツとしては認定されず排除されてしまったわけである。

こうして一般紙・朝刊スポーツ紙ではプロレスをスポーツ面からシャットアウト。記事として取り上げられることがなくなっていったというプロレス草創期時代の「ショーか、スポーツか」というファン心理を二分した葛藤の変遷期があったのである。今では想像も出来ぬであろうが天下を二分したこの論争で親子の断絶や友人との訣別といった悲喜交々のドラマを背負った人は少なくなかったのである。

今でも団体が公式に「疑似格闘技ショーのエンターテイメント」とはカミングアウトしてないように、力道山も否定はした。だが、おかしな光景を目撃してしまったファンはスポーツだと胸を張って断言することも出来ず、100%ショーの八百長出来レースとも認めたくない心理からか、曖昧なグレーゾーンの領域に位置するのがプロレスと半ば強引に納得する人も多かったようである。

世間から八百長ショーと結論付けられたプロレスを扱う新聞が三流夕刊紙に移っていったのは当然の帰納であった。三流夕刊紙はエロ・グロ・芸能ゴシップと野球界の内幕(与太話)が中心だったが、そこにスポーツ界から閉め出されたプロレスが降って湧いてきたわけである。

運動部記者クラブにも相手にされなかった夕刊紙記者でもプロレス界からは三顧の礼を持って迎えられ大歓迎された。ここからプロレスと三流夕刊紙や与太新聞との蜜月時代が築かれていったのである。プロレスはエロ・グロの与太話と同じレベルで、取材の必要もないガセネタを誇張して書き散らしておけば良かったわけで、そこは三流夕刊紙の一番得意とするところであったわけである。

来日した外人レスラーが記者会見で開口一番「リングで血祭りの絞首刑にしてやる!」「地獄行きだ!タンカを用意しておけ!」「恐怖の皆殺し宣言!」といったリップサービスが一面を飾り、三流夕刊紙は水を得た魚の如く宣伝記事で煽り、部数を伸ばしていった。

今でこそ三流与太新聞でも野球やプロレスと記者もセクション別に分かれているが、当時は与太話が作れればいいわけで今日は芸能ゴシップを書けば、明日はプロレスを書くというデタラメ振り。取材の必要がないので一つの事を十倍に膨らませて誇張記事に仕上げる妄想記者が重宝され、こんな針小棒大記事、見てきたようなウソが連日紙面を賑わせていった。

こうして世間やマスコミにも嘲笑されたプロレスではあったが、その不可解で面妖なインチキの塊の深奥に潜む鈍色の色合い…清濁併せ持った昭和のプロレスにそのような不可思議な魅力の片鱗を感じ取ったファンもいた。だが今の漂白された明るいだけのノーテンキなエンターテイメントを全面に出した浅いプロレスには、そうした狂気の気配は露一つ持ち合わせてはいない。だからであろうか、会場から大人の顔が消え試合も完全予定調和に収まるよい子の学芸会に変わってしまった。

相撲界で糾弾されている「八百長」はプロレス界にはそもそも最初から存在し得ない

プロレスが正式に筋書きのあるショーとカミングアウトされたのは米国のWWEで、日本では元選手や関係者、レフリーが暴露はしたものの、団体側はあのWWEの猿マネであった「ハッスル」(消滅)でさえ公式には八百長ショーとは認めてはいない。もっとも、誰が否定しようが今では小学生でもモンキー・ビジネス、八百長の似非格闘技ショーであることは知っていることであるが。

その芝居を司る者は誰もが優等生で芝居を根底からひっくり返してしまうワルもワルが棲息する気配や息吹が感じられない退屈な舞台に退化してしまったわけである。体臭が悪臭とされ漂白されたプロレスと言い換えてもいい。

冒頭で紹介したネパールのプロレス事情には明るくないが、今回NHKで紹介された背景には、間に入った紹介者が不満をブログで綴っている。事の是非はここでは問いようがないが、どうやらお互いの意志の疎通の齟齬が招いた行き違いにあるようである。

番組では触れてなかったが、ネパール・プロレスは手本とする米国のWWEと同じように似非格闘技ショーであるとカミングアウトしているのかも知れない。そう考えれば、NHKの取材に協力的に試合のリハーサルやシナリオ作成風景を公開したことも頷ける。

もしそうであるなら、日本のプロレスより進化しているのはネパールの方になる。それを知られたくないのでNHKはわざとボカして触れなかったのかも知れない。

そもそも今回のNHK「ネパール・プロレス紹介」のテーマはマイナーなプロレスを人気スポーツ(ショー?)にしたいと、若い新人レスラーたちが仲間と悪戦苦闘、奮闘する様子を追った青春グラフティーであった。そのストーリーから外れる都合の悪い部分や不必要な部分をカットする編集方法はテレビマンでなくても当然である。

ネパールとは違い日本には相撲界のヒーロー・ガチンコ力道山がいた。本来ショーであるはずのプロレスを日本の風土(ガチンコ好き)に合わせ真剣味を装った似非スポーツとして紹介した力道山の功罪は今でも大きいように思う。

この言葉じりを捉え、どうも世間では功罪の「罪」ばかりを取り上げる風潮があるようだが、筆者は「功」の部分をより積極的に論じてみたい気があるのだが、それはまたの機会に譲るとしよう。

さて4月を迎え大相撲で八百長に関与されたと疑いのある力士23名の角界追放、他に3名解雇の処分が決まった。相撲界の問題でもあるのでここでは詳しくは問うまい。

ネパール・プロレスを通して八百長論を検証してきたが一部では「プロレスに八百長はない」という論があるが、それは正しくは「相撲界(スポーツ界)で言われる意味での八百長がない」ということで至極当然である。そもそも八百長が成り立つには勝敗に金銭が絡むことが前提条件で、利益を有する者がいるということが不可欠である。

番付けを落としたくない、勝ち越したい、優勝したい、出世したい、横綱になりたいという我欲の背景には勝負に勝つことで道が開けていく、というスポーツの鉄則・原則が立ちはだかる。勝つことが栄光も人気も地位も富も手に入れられることができる世界なのである。その指針として番付けやボクシングにはランキング制度が導入されているわけだ。その階段の頂上が横綱であり、チャンピオンである。

プロレスは似非格闘技ショーである。勝ち負けは関係なく、楽しい試合、面白い試合、笑わせる試合、時には感動させる試合を演じられる(興行収益の強い)レスラーに高いギャラが支払われる。当然であるが勝率が全く意味のなさない世界である。チャンピオンであろうと客の呼べないレスラーはギャラは低いし二度と日本には呼んでもらえないことに通じる。

負ければ引退・廃業の二文字を背負っているのがスポーツ勝負世界で、還暦を過ぎても試合に負けてもまだ観客を満足させられる(集客力のある)レスラーは生涯現役であろう。銭が取れる内は引退を考えなくていいエンターテイメントゆえに相撲で言うところの八百長は最初から存在し得ない世界なのである。

別稿でも触れたがミスターマリックが年老いても観客を堪能させるマジックショーが遂行できるのであれば引退の二文字は無いであろう。落語の世界では真打ちから名人の大看板を背負うのは還暦を過ぎてからの方が圧倒的に多い。老人でも枯れた演者として人気は高い。エンターテイメントの世界はそういう図式なのである。

ただエンターテイメントの似非格闘技ショーといえども勝敗が存在しないと興行が成り立たない。毎回全試合を時間切れ引き分けにするわけにもいかず、便宜上の勝ち負けを決めているに過ぎない。プロレスではこの事前に勝ち役負け役を決めておくこと(=シナリオ)を八百長とみるかどうかの些細な違いでしかない、というのが今回の結論である。プロレスの存在そのものが八百長世界なのである。

今でこそ年間の試合数は不景気と不人気で減少しているがプロレス黄金期の最盛の頃は200試合を超えていた。ギャラの精算は長年外人レスラーの払いに倣い週給が基本であった。ギャラの高低はチャンピオンやベルト保持者という肩書きではなく、興行収益の強い(観客動員出来る)か弱いかで決まる。

タイトル試合だと観客のチケット料金は高いがレスラーの懐に入るカネの金額は週給単位である以上、地方のドサ回り興行と同額である。田舎の6人タッグマッチで1分のファイト時間の試合と東京ドームのタイトルマッチで60分フルタイム戦う試合のギャラが同じなのである。このことを理解してないと「プロレスに八百長はない」ことが理解不能に陥る。

もっと分かり易く述べるなら、1週=7日=7試合分のギャラと地方興行が埋まらずゼロ試合でもギャラは1週間分を支払う契約なのである。当然、団体側は7日全てを試合を組み興行したいと地方プロモーターに売り込むことになる。それが先の隆盛期200試合オーバーという年間試合数であった。これが興行ファイトマネーの仕組みであったわけである。

レスラーは週給契約を交わした以上、7試合地方ドサ回り興行のハードスケジュールを組まれようが文句は言えないし、試合ゼロで7日間ホテルで寝ていようがギャラは1週間分が支払われるわけである。休養日もなく7試合組まれればどこかで手抜きしたくなるのが人間の性であろうし、7日で1試合しかなければ「一丁、頑張ろうか!」と思うのもこれまた人情か。(中には例外もいるが)

カネにシビアな外人レスラーをより上手に働かすにはやはりカネで動かすしかない。細かく言えば流血試合ならジュース代が支払われたように様々なボーナス手当を加味してレスラーの鼻先にニンジンをぶら下げるわけである。それが当時のギャラシステムであった。

最近のプロレス界は不況や人気凋落、零細インディーズ団体の乱造もあって、とても週給単位で払える余裕がなくなり(試合数激減で)1試合いくらというワンマッチ契約のギャラ精算がほとんどだという。勝つことがギャラに反映されないシステム、つまり報酬はショーシステムを踏襲、ゆえに八百長は成立しようがないのである。

ただ、そんなインチキ臭い八百長世界に包まれた疑似格闘技ショーでもシナリオ破りやシナリオ無しの恐怖のセメント試合は確かに存在したのも事実である。それゆえ昭和のプロレスは底が丸見えの底なし沼のような奥底でひっそりと鈍色に燻る存在なのであり、そこにファンは魅力を感じたのである。





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ブロマガ

紹介文:門茂男主宰のユニオン元会員で、同氏には長年に渡りご交誼を賜った。ライフワークであった「ザ・プロレス365」の未発表を含む取材メモを見せて頂き、その要点を再構成した「門茂男メモ」と数名のプロレス記者から入手した情報をベースに記した昭和プロレスのテーマに迫ります。
ミスター高橋の「流血~」本で白日の下に暴かれたプロレスの実像ですが、単なる暴露もので終わるのではなく、門氏が追及したレスラーの人間性にまで同じように迫りたいという思いです。

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プロフィール

シンタロー

Author:シンタロー
プロレスのテレビ初観戦は小学生前の幼少期に祖父宅で見た力道山プロレス。その当時、一番印象に残っている試合は降参しないと足が折れると技の恐ろしさを足4の字固めで教えてくれたザ・デストロイヤーや、吸血鬼を連想させる噛みつきで相手を出血させるレスラーの怖さを知らしめたフレッド・ブラッシーよりも、幼心にはコミカルな妙技で笑い転げたミゼット・レスラーとのタッグマッチであった。それは祖母が馳走してくれた三ツ矢サイダーの味と共に脳裏に刻まれている。放送日の詳しいことは不明だが、昭和35年8月にミゼット・レスラー(名前は不詳)初来日の記録がある。テレビ観戦がその時期のどの試合であったかは今となっては調べようもないのが残念である。
一般総合雑誌・書籍編集者として多数のプロレスや格闘技関係の企画立案に参画し、馬場、猪木、大山倍達、木村政彦を始め多くのレスラーや格闘家を取材。プロレス界のご意見番・門茂男氏とは編集ジャーナリストの大先輩として長年に渡り公私ともども御交誼を賜った。お会いする度に未整理、未発表の「ザ・プロレス365」のラフ原稿を見せて頂き、同時に門氏が口頭で語った様々なある事件の真相や噂(裏付けが未確認)を氏の了解を得てノートにまとめ「門メモ」として所有する元ユニオン会員。

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