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「セメント・レスラー」アントニオ猪木の魅力を探る①~附記/第13回Wリーグ戦におけるデストロイヤーとの攻防

平成プロレスが不振で喘いでいる。昭和のプロレスファンの立場で言えば関心も興味も消え失せた身ではこのままプロレスが滅亡に突き進んでいったとしても特別の感慨に耽るようなことはおそらくないだろう。どうしてプロレス熱が冷めてしまったのか。

米国WWEの八百長カミングアウト、プロレス界の裏側を描写したドキュメント映画「BEYOND THE MAT」の公開、ミスター高橋の暴露本などが次々に日本マット界を襲い、急速にプロレス人気は失墜した。今年に入ってはアジア版「BEYOND THE MAT」とも言える「ネパールプロレス」をNHK-BSが放送。

そこではテレビカメラの前でシナリオが書かれたノートをレスラー達が読みながら乱入のタイミングを相談するというタブーとも言える衝撃的なシーンを初公開。まさに黒船の来襲の如くこれらの影響を若いファン達は受けたようであるが、筆者にとってはそんな些細な事よりも最大の出来事は猪木の衰退、引退であった(1998年4月4日引退試合)。

同じような昭和のプロレスファンは回りにも多い。同じ元ユニオン会員の知己や出版、マスコミ関係者といった同業者もそう語る者が多い。猪木の引退をもってプロレスから卒業していった者がほとんどだ。

力道山で知ったプロレスの魅力を筆者に存分に教えてくれたのは猪木であった。馬場とのドロドロとした確執からジン・キニスキー、ボボ・ブラジル、フリッツ・フォン・エリックといったトップレスラーとのインター選手権試合前にはテレビ放送のシングル戦でそうした外人トップ選手と闘わせられ馬場の噛ませ犬(負け役)を演じ、リングで玉砕していく猪木に歯ぎしりをしたものであった。

猪木は馬場よりも弱いということを間接的に満天下に知らしめるこうしたギミック試合が日プロ幹部のアングルとは当時、知る由もなかった。だからであろう、猪木応援に一層の熱が入った。

その冷徹な序列をぶち破る手立てがワールドリーグ制覇(当時、エース級日本人同士の対戦はタブー)であった。馬場を追い抜き文字通り日本一のレスラーの称号を掌中に収めんとしていた猪木を幹部連中は馬場擁護策として外人レスラーに鼻グスリを嗅がせセメントで猪木優勝を阻止していた日プロ時代。

そうした確執が一つの頂点を迎えたのは昭和44年ワールドリーグ初制覇、その暮れにはドリー・ファンク・ジュニアとのNWA世界戦60分ノーフォールマッチ(猪木名勝負で常に上位にランクされている)の頃であろう。すでに馬場と実力では肩を並べたとプロレス新聞からも評価される両巨頭時代の幕開けでもあった。

昭和45年のワールドリーグにはドン・レオ・ジョナサン、昭和46年にはザ・デストロイヤー、アブドーラ・ザ・ブッチャーが同率で馬場との決勝戦で顔を合わせた。昭和44年に続く猪木の連覇は無く、再び馬場が「日本一のレスラー」の序列トップに君臨した。参加者全員の総当たり制なり、日本同士でトーナメントを実施し日本人トップと外人トップが雌雄を決するという、今では当たり前の論理が当時はタブーであった。つまりは序列破りは禁じ手であったのである。

門茂男の「ザ・プロレス365」に拠れば、その辺の事情が詳しく記されているので以下要約する。ーー昭和46年の第13回ワールドリーグでは決勝に馬場、猪木、デストロイヤー、ブッチャーの4選手が勝ち残り、馬場との日本代表を賭け一騎打ち戦を猪木が要求したが、日本人トップ選手との対決は認められないと却下。その妥協案としてクジ引き(日本側と外人側)で対戦者を決めることなった。その場にはデストロイヤー、ユセフ・トルコ(猪木の代理)、沖識名(ブッチャーの代理)、芳の里(馬場の代理)が出席。

馬場と猪木の名前を記したクジをデストロイヤーに引かせると、それが猪木であったということで猪木vsデストロイヤー戦が決定。それはセメントマッチに発展したわけであるが、既にこの時点でデストロイヤーは「猪木潰し」の特別ボーナス(1千ドル=36万円)の半金を芳の里から受け取っていたという。これには後日談があり、沖識名の証言ではクジには2枚とも猪木の名前しか記されていなかったということである。つまりは馬場優勝のシナリオに沿って猪木排除の八百長クジ引きが行われたのであった。

何故、ブッチャーでなくデストロイヤーに「猪木潰し」を依頼したのか? この頃のブッチャーは日本でこそデストロイヤーと並ぶメインイベンターではあったが、格で言うと横綱と小結くらいの違いがあった。日プロとの関係もデストロイヤーは力道山時代から続く信頼関係も築かれていたし、馬場とも友好関係があった。ちなみに力道山の死をアメリカ遠征中だった馬場に誰よりも早く最初に教えたのはデストロイヤーであった。

同時に反猪木の筆頭でセメントにも強く、猪木の勝ちを阻む力量に全幅の信頼を寄せていたのである。ブッチャーのセメント力は未知数ということも影響していたし、ギャラ的にもブッチャーはこの頃は低くデストロイヤーの週給1千ドル(36万円)の半分以下(400ドル=14.5万円)だった。つまり猪木側が裏から密かに手を回し高報酬でブッチャーを寝返らせる危険を芳の里は感じて、デストロイヤーに猪木潰しを依頼したというのが真相のようである。

それと先ほどの外人レスラーの顔ぶれを見てお気づきであろうか? 全て親馬場派のレスラーである。猪木連覇を阻止すべき参加選手のメンバーを急遽入れ替え(キラー・カール・コックス&ダッチ・サベージ)、セメントに強い親馬場派のレスラーで固めた当時の日プロ幹部の策略が読み取れる。この布陣を揃えたのは当時の外人招聘の采配をしていた遠藤幸吉であった。

昭和45年は巨体ながら柔軟なレスリングセンスが光るドン・レオ・ジョナサンの壁を予選では勝利したものの、結局は突き破ることが出来なかった。昭和46年では先のデストロイヤーとのセメントマッチでは足4字をかけたままリング下に落ちるという引き分け作戦の前にワールドリーグ連覇の夢は消え去ったのである――。

今となっては懐かしい「たられば」話でしかないが、もし馬場が猪木の挑戦を受諾して対決が実行されていたら、と考えるオールドファンは多い。しかし馬場はセメント恐怖症で対猪木戦を頑なに拒否し、子飼いの轡田を用心棒代わりに控え室に閉じ籠もり震えているだけだった。親馬場派の沖識名にさえ「情けない臆病者め!」と侮蔑の表情で哄笑されていたという。

その後も何度か猪木は正式に挑戦状を申しいれたが、公式コメントでは「テレビ局の調整(日テレとテレ朝)がつかない」「猪木は信頼がおけぬ」の2点で拒否。最初の問題は「生中継のテレビ無し。後に録画で2局で放送する」という妥協案があった。問題なのは次の「猪木は信頼、信用できない」という文言である。これは一体、何を意味するのか? この言葉の意味を馬場に問い正したプロレス新聞は皆無であった。以下は筆者の想像である。

八百長のシナリオ試合が裏で成立しても、猪木はそれを土壇場で裏切りセメントを仕掛けてくる、という思いではなかったのか? 力道山vs木村政彦戦のセメントマッチも力道山の裏切りで木村は葬られたとする説があった。その手を猪木が狙っていると馬場は疑心暗鬼であったのではないか? つまり馬場は最初からセメントで闘うという発想が無く、これまで通りの八百長「シナリオ試合」しか頭にはなかったということだ。「作られたスター(チャンピオン)」の悲哀を感じさせるエピソードである。

カール・ゴッチからセメント用の裏テクニックを貪欲に吸収したのも馬場を追い抜く一心が影響していたに違いない。芳の里を頂点とする日プロ幹部は全てが親馬場派であった。馬場をトップに年功序列で十年一日の如く勧善懲悪のプロレスを演じていれば安泰と考えていたわけであり、「ワールドリーグ馬場優勝」は日プロの社是であった。

その序列を破り、実力でその日本一の制覇を求めた猪木を外人レスラーの力を借りてセメントで潰そうと考えるのは反逆児・猪木を抑える策略としては当然の手段であった。「セメントで潰しにくるならセメントで迎え打つ」と猪木がセメントに磨きを掛けたのも当然であろう。ゴッチとの道場特訓にも身が入ったわけである。

その後、日プロ乗っ取りのクーデター首謀者のレッテルを貼られ、日プロを追放された猪木の胸中には馬場の裏切りが許せなかったのであろう、新日プロを立ち上げ親派のディリースポーツ記者を使い「馬場は片手3分でKO!」と怨敵である馬場に挑戦状を叩きつけ、執拗に追い回し馬場をセメントで潰すことで実質的に「レスラー日本一」の称号を掌中にしようとしてた野望時代の猪木は眩いほど逞しかった。

そのセメント恐怖症の馬場が尻込みし、決して挑戦には応ぜずとみた猪木は異種格闘技戦に走った。照準を馬場から世界の格闘家へシフトしたわけである。ボクシング世界ヘビー級チャンピオン・モハメド・アリを筆頭に柔道金メダリスト・ウィリアム・ルスカ、極真空手「熊殺し」ウィリー・ウィリアムスといった夢の世界でしかなかった格闘技ロマンを現実のものと化した姿は正にヒーローそのものであった。

筆者の幼少青年期は「巨人・大鵬・卵焼き」の洗礼を受けた時代であった。テレビを点ければ王・長嶋がホームランを打ち、「悪太郎」堀内が三振の山を築き、「8時半の男」宮田がクローサーを務めた巨人常勝のV9時代。少々天の邪鬼であった筆者は神奈川生まれということもあり、大洋を密かに応援。中でも「カミソリシュート」平松、「ポパイ」長田、「ライオン丸」シピンが好きであった。

NHKにチャンネルを回せば横綱・大鵬と柏戸の千秋楽の大一番…ここでも「うっちゃりの名手」明武谷を応援、ボクシング界では「ハンマーパンチ」藤猛、「シンデレラボーイ」西城正三、「小さな巨人」大場政夫のファイトに夢中であった。同時にいぶし銀ファイトで人気イマイチの小林弘や栃木弁丸出しの柴田国明、一打逆転右アッパー狙いの沼田義明にも大いなるシンパシーを感じながら成長していた。そうした数々のスポーツ界のヒーローが誕生しては消えていったが常に筆者と一緒に歩んでいたのが猪木であった。

プロレスは八百長丸出しの胡散臭い競技ではあるが、時には他の格闘スポーツを一瞬の内に凌駕してしまう戦慄のセメント試合が行われていたのも事実であった。馬場がセメント恐怖症で決してセメント勝負で決着を付ける度胸も意志もなくシナリオ試合しか演じられぬおよそ格闘家としてのプライドも矜持も全く感じられなかった部分が一層、猪木ファンへと駆り立てたのだと思う。

先日、猪木は韓国紙「中央日報(7月18日付け)のインタビューを受け、次のような返答をしている。

ーー「プロレスは仕組まれた競技」と言う人々もいる。脚本が書かれた試合はあるか。

「猪木のプロレスは本物だ。すべての試合に命をかけて臨んだ。パキスタンでのアウェーゲーム中には、相手選手の目玉が飛び出したこともあったし、ソウルではパク・ソンナム選手が試合後に命を失った。人だから当然申し訳なく思う。しかし試合に臨む選手はプロだ。受け入れなければならない現実だ」

普段はシナリオ八百長試合でも、いざという時にはセメントで立ち向かう猪木の格闘家魂がこのインタビューでもその矜持が息づいているように思う。

ギャラや待遇面で不平を口にしていたグレート・アントニオを非情なセメントキックを顔面に叩き込み戦意喪失、ノックアウトをした猪木はお払い箱の最後通牒、いわば猪木なりの公開処刑であった。

この「キラー面」が猪木の大きな魅力であった。今の平成プロレスはセメントはおろか、その香りさえ悪臭とみなしリングから消し去り、漂白された学芸会プロレスを演じている。当然、昔からのセメントを知るファンは会場を去って行き、今の会場には若い顔ばかりになってしまった。大人のファンが消えた平成プロレスは益々子供用学芸会のトーンが濃くなり、現在の不振に至っている悪循環のスパイラルに陥っている。

結局、猪木のセメント魂を受け継ぐレスラーが生まれなかったという冷酷な結果が今の不人気の全てであろう。藤波、長州、鶴田、天龍、前田、高田、武藤、橋本、蝶野といった個性豊かなメイン・イベンター達も猪木を核に求心運動をする名脇役であったと言う他はない。

力道山がタネを蒔いたプロレスの魅力の本質はセメントにあるというのが原点のはずで、それを猪木は身体で受け継いだレスラーだと思う。馬場よりもセメント精神なら大木金太郎の方が数段勝る。だがプロレスはセメント勝負が全てではない。シナリオ通りに完遂することが求められているのも事実で、こちらの方がウエイトが大きくなってきている。セメントの香りが消えたリングはただのサル芝居の場でしかない。

あくまで猪木という太陽が大きく燃えながら回転することでそうした惑星に光が当たり、そのことが科学反応を起こし、さまざまな相乗効果を生み出しプロレスの発展、進化を及ぼしたのである。しかし惑星はどんなに光を反射したところで太陽には成り得ないのである。それほど猪木の存在が大きかったという証左であろう。筆者が猪木プロレスを体感できたのは至上の喜びであった。





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テーマ : プロレス
ジャンル : スポーツ

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紹介文:門茂男主宰のユニオン元会員で、同氏には長年に渡りご交誼を賜った。ライフワークであった「ザ・プロレス365」の未発表を含む取材メモを見せて頂き、その要点を再構成した「門茂男メモ」と数名のプロレス記者から入手した情報をベースに記した昭和プロレスのテーマに迫ります。
ミスター高橋の「流血~」本で白日の下に暴かれたプロレスの実像ですが、単なる暴露もので終わるのではなく、門氏が追及したレスラーの人間性にまで同じように迫りたいという思いです。

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プロフィール

シンタロー

Author:シンタロー
プロレスのテレビ初観戦は小学生前の幼少期に祖父宅で見た力道山プロレス。その当時、一番印象に残っている試合は降参しないと足が折れると技の恐ろしさを足4の字固めで教えてくれたザ・デストロイヤーや、吸血鬼を連想させる噛みつきで相手を出血させるレスラーの怖さを知らしめたフレッド・ブラッシーよりも、幼心にはコミカルな妙技で笑い転げたミゼット・レスラーとのタッグマッチであった。それは祖母が馳走してくれた三ツ矢サイダーの味と共に脳裏に刻まれている。放送日の詳しいことは不明だが、昭和35年8月にミゼット・レスラー(名前は不詳)初来日の記録がある。テレビ観戦がその時期のどの試合であったかは今となっては調べようもないのが残念である。
一般総合雑誌・書籍編集者として多数のプロレスや格闘技関係の企画立案に参画し、馬場、猪木、大山倍達、木村政彦を始め多くのレスラーや格闘家を取材。プロレス界のご意見番・門茂男氏とは編集ジャーナリストの大先輩として長年に渡り公私ともども御交誼を賜った。お会いする度に未整理、未発表の「ザ・プロレス365」のラフ原稿を見せて頂き、同時に門氏が口頭で語った様々なある事件の真相や噂(裏付けが未確認)を氏の了解を得てノートにまとめ「門メモ」として所有する元ユニオン会員。

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