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井上義啓と週刊ファイト~その正体に迫る③~

昭和55年6月に村松友視が「私、プロレスの味方です」を引っ提げて華々しいマスコミデビューを果たした時、井上は異常なまでの競争心、というより嫉妬心と敵愾心が入り交じった感情を顕わにしたと聞く。

妄想プロレスの発案者というプライドをいきなり外野席にいた素人に斬新で哲学的スパイスの香りを放っていた新しいプロレス論を開示され、あっさりと超えられてしまったという忸怩たる思いからであった。

己の文学的才能の無さを呪ったほどであった。地方大学出の文学青年くずれを自称する井上のようなタイプにとって祖父が作家(村松梢風)で慶応ボーイの名門文芸誌編集者というサラブレッドの血統、東京人に対する大きなコンプレックスが影を落としていた。その後村松は作家生活に専念、直木賞を受賞し妄想を書き散らす井上とは格の違いを見せつけた。無論、最初から住む世界、土俵が違っていたのは明らかであった。

井上が執った妄想プロレスの源流は前述したようにセメント幻想をちらつかせるギミックである。週刊ハンデ、大阪ハンデ、取材ハンデ、経費ハンデ、人員ハンデ、馬場からの冷遇という無い無い尽くしでは日刊紙のような記事作りは不可能であるし、意味を成さない。週刊誌的切り口が要求され、当然その行方にはインサイド・ストーリーに視点を置いた構成に行き着く。

日刊紙の東京スポーツが結果報道に重点を置く紙面構成と違い、週刊ではその結果の背後関係を考察する雑誌的センスや視点切り口がポイントとなってくる。つまり妄想を働かせるスペースが生じてくるわけである。井上が夕刊紙担当時代に培った発想の原点がここでも有効に機能、発揮したわけである。

当時もプロレスには常に八百長論議がつきまとっていた。ファンの大方の心理は「スポーツではないのは承知だが全部がヤラセのシナリオ試合でもない、時にはセメント試合もある。グレイゾーンの胡散臭いモノ」といった見方であった。そうした読者が抱くイメージに擦りようように井上がモチーフとして使用したセメント幻想はその都度、形を変え照射角度も変化し膨らませて読者の脳裏に入り込んだ。今風に例えるならマインド・コントロールの出来損ない、といったところか。

その典型的パターンはこうである。プロレスはグレイゾーンの競技であることを認める姿勢、理解を示す。目線を読者と同方向からプロレスを語ることで、味方、同士の意識を擽るわけである。勝ち負けが事前に決まっている試合に妄想、所謂脚色を施し、本来は単なる八百長試合でしかない現実から逃避、健忘させグレイゾーンの含みを残し新しい肥大したイメージを想起(錯覚でしかないのだが)させる脚本を化しそれを提示した、というのが井上流妄想プロレスの正体の本質であった。

プロレスは勝敗の結果が出てからが始まると言われてきた。負けたその背景にはどのような事実が散らばっているのか? ジグソーバズルのように一片一片を拾い集め、足りない欠けた部分を妄想で埋めていこうという所作である。これはあくまでプロレスがグレイゾーンで煙幕が立ち込めていたから楽しめた一種の推理ゲームのようでもあった。煙幕があると錯覚していたため、妄想は変化自在にエスカレートしていく。しかも永遠に正解の無いスパイラルである。

この頃に井上が生み出したフレーズがある。「プロレスは底が丸見えの底なし沼」である。「プロレスは八百長丸出しの小学生でも筋書きが見えてしまう最低の競技だが、その一方でセメント試合の殺気、緊張感はの他の格闘技を凌駕する凄みを持った競技であり、奥は深い」と言いたかったようである。

少ないとは言えセメント試合が生じていた時期まではこのフレーズも一応の説得性が保たれていたと思う。馬場、猪木の確執が裏切りや反駁を生み周辺の親派レスラーを巻き込みながらセメントが発生した。正しくは猪木をゾーンの中心にして発生したというべきか。

この時期、井上ロジックでも誤魔化せない仕掛け(アングル)があった。それは馬場がインターナショナルの防衛戦前に行われる二番手猪木を噛ませ犬、つまり負け役をシングル戦で起用し、間接的に馬場のエースとしての強さを証明させるエテ公役を演じなければならなかったことである。

馬場のインターに挑戦するのは外人エース、トップの役回り。二番手猪木としては善戦はしても力足りず惜敗というパターンである。エース馬場にファンは必勝の声援を送り、猪木の分まで復讐を頼むいったと期待感を盛り上げシリーズ最終決戦にピークを迎えるというシリーズの流れ。プロレスには欠かせない古典的な仕掛けである。

満天下のテレビマッチのシングル戦で負け役を演じなければならない、しかも馬場の肥やし役という恨みからか、幹部連中に語気鋭く攻め寄った。「インターチャンピオンなら台本試合ばかりでなく、セメントで勝たなければ先生(力道山)に顔向けできない! 先生の偉業に泥を塗る気か!」と批判のボルテージは沸点に達する勢いだった。

こうしたアンチ馬場グループの進言(脅迫?)が受け容れられ昭和43年6月、馬場はボボ・ブラジルのココバットの前に沈み、インター王座を明け渡した。馬場が日プロ時代に王座から引きずり降ろされたのはこのボボ・ブラジルとジン・キニスキーの2人であった。

常勝ストーリーがファンの間でも飽きられてきていたことを意味している。馬場蹴落としの野心は益々膨張し、それを実行に移す力も蓄えられつつあった。その背景には猪木人気の支持、拡大があったのは言うまでもない。

このような仕掛けは平成プロレスの今でも健在である。勝つことが許されず「馬場の引き立て役をいつまで務めなければならないのか!」この不満が新日プロ結成の源流にあったのは確かであろう。馬場と猪木との確執は猪木の一方的怨念から生まれたものであった。

プロレス界における先輩後輩の年功序列は侵すことのできぬタブーである。先輩に華を持たすことが不文律であった。この序列を飛び越えるのは当時は奇跡に近かった。万年二番手の猪木はいつまでたっても馬場の地位に並ぶことは許されなかった。人気面では互角、それ以上の評価を得ていても馬場に失点がない限り、万年2番の位置は変わりようがなかった。その葛藤が時にはプラスにもマイナスにも触れた。

その確執も猪木、馬場それぞれが外に飛び出し自らがお山の大将(新日、全日)に収まることでセメントが無くなると思われていたが、猪木イズムの流れを汲む新日本では猪木とその弟子たちとの覇権争いポスト猪木の座を狙いセメントが生き続けていた。だがそれも猪木から新日の実権が離れ第一戦から引くのと同じようにして消えていった。

そして平成。セメントの香りさえ悪臭とみなし消え去った今の学芸会プロレス。WWEが株の上場に伴い厳しい会計検査や業務内容の告知を株主にディスクロージャーするに至っては、これまでのように臭い物にはフタでは通用せず、プロレスは俳優が与えられた配役でブロードウェイ・ミュージカルを行うのと同じでレスラーが決められた配役(勝ち役、負け役)を演じる八百長ショーであると正式にアナウンスし白日の下に曝されたことの影響は大きかった。黒船の来襲である。

同時に公開されたプロレスの裏側を追ったドキュメント映画「BEYOND THE MAT」、それに呼応するように発売されたミスター高橋の暴露本。それぞれが強力なカウンターパンチとなって日本のプロレス界を襲い、人気を奈落の底に突き落としていった。(別稿を参照)

黒船来襲、ミスター高橋の造反の前では井上が見せた手品も底が浅くそのトリックがバレてしまい、ファンは一気に冷めていったようである。先述した井上のフレーズも「プロレスは底が丸見えのただの腐った沼地」と書き換えられたのは皮肉であった。

日本のプロレスでは未だプロレスは「八百長ショー」とは各団体とも正式に広言できないでいる。力道山が紹介した疑似セメントの影響、いや呪縛から逃れられないでいるようである。米国のように八百長を表に出さず、曖昧に誤魔化しエンターテイメントショーの部分を強調する今の運営手法は米国の焼き増しに過ぎず、やはり米国に比べ、どの選手も中途半端で役不足は否めない。

高額ギャラ制度、社会保険や医療補償のバックアップ体制を早く築くことが肝要であろう。でなければ全力ファイトには結びつかない。ただの三流八百長ショーでしかない。子どものファンは熱狂しても去った大人のファンは戻って来ないし見向きもしないであろう。

今のプロレス界は深刻な人材難を迎えている。プロのスター選手に憧れるという動機が持てないからだ。人気もマイナーで低報酬、地位も社会的ステイタスにも無縁な世界に成り下がってしまっている。プロレスラーに夢が託せない時代になってしまっている。有望な格闘技界のスター候補生はプロレスには見向きもしない。昨日まで素人だったフリーターや学生プロレス上がりばかりではお先真っ暗としか言いようがない。

年々、日本の青少年は体力向上をみせているが、驚くなかれプロレス界だけが平均身長が下がっている競技は他にないのである。有望な未来のヘビー級スター候補生がいない現実、関係者は真剣に考えるべきことだ。

プロレスは世界中どこへ行ってもプロレスである。馬場が猪木プロレスはストロング・スタイルとファンから讃えられ自分のプロレスはショーマン・スタイルと小馬鹿にされていることに強い憤りを感じていた。「猪木のプロレスはただ自分だけエエカッコをしたがるだけじゃないか。プロレスはプロレスなんだ!」と周辺に吠えていたと言う。

今となってはこの馬場の発言は正しかったとファンは納得している。米国のプロレスもネパールのプロレスも、そして日本のプロレスも同じカテゴリーに属す競技であるのは自明の理。だから米国人レスラーが裸ひとつで日本のマットに上がり、日本人レスラーが米国マットで活躍できるのである。当然の帰結だ。

台本があるからそれに合わせて身一つで世界中のマットに安心して上がれるわけである。この台本に沿った仕掛けや演出は興行師(ブッカー)が色々と仕掛けを考案してくれる。時には自らが進んで台本に絡んでいく積極性が成功への早道でもある。

妄想プロレスの発案者、井上義啓は2006年に他界した。それは同時に妄想プロレスを埋葬するフィナーレ、墓碑銘の告別でもあった。


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テーマ : プロレス
ジャンル : スポーツ

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紹介文:門茂男主宰のユニオン元会員で、同氏には長年に渡りご交誼を賜った。ライフワークであった「ザ・プロレス365」の未発表を含む取材メモを見せて頂き、その要点を再構成した「門茂男メモ」と数名のプロレス記者から入手した情報をベースに記した昭和プロレスのテーマに迫ります。
ミスター高橋の「流血~」本で白日の下に暴かれたプロレスの実像ですが、単なる暴露もので終わるのではなく、門氏が追及したレスラーの人間性にまで同じように迫りたいという思いです。

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シンタロー

Author:シンタロー
プロレスのテレビ初観戦は小学生前の幼少期に祖父宅で見た力道山プロレス。その当時、一番印象に残っている試合は降参しないと足が折れると技の恐ろしさを足4の字固めで教えてくれたザ・デストロイヤーや、吸血鬼を連想させる噛みつきで相手を出血させるレスラーの怖さを知らしめたフレッド・ブラッシーよりも、幼心にはコミカルな妙技で笑い転げたミゼット・レスラーとのタッグマッチであった。それは祖母が馳走してくれた三ツ矢サイダーの味と共に脳裏に刻まれている。放送日の詳しいことは不明だが、昭和35年8月にミゼット・レスラー(名前は不詳)初来日の記録がある。テレビ観戦がその時期のどの試合であったかは今となっては調べようもないのが残念である。
一般総合雑誌・書籍編集者として多数のプロレスや格闘技関係の企画立案に参画し、馬場、猪木、大山倍達、木村政彦を始め多くのレスラーや格闘家を取材。プロレス界のご意見番・門茂男氏とは編集ジャーナリストの大先輩として長年に渡り公私ともども御交誼を賜った。お会いする度に未整理、未発表の「ザ・プロレス365」のラフ原稿を見せて頂き、同時に門氏が口頭で語った様々なある事件の真相や噂(裏付けが未確認)を氏の了解を得てノートにまとめ「門メモ」として所有する元ユニオン会員。

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