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【馬場と猪木 日本プロレス史⑦】最期まで確執に生き貫いた壮大なプロレス人生の最終譜(最終話)

益々酷くなる一方の馬場、猪木の犬猿の仲は、何れ騒動に発展すると誰もが感じていたが、その不安が的中する大事件が起こった。昭和46年12月13日、猪木は会社乗っ取りの烙印を押され、日プロから叩き出されてしまったのである。

この一連の騒動の裏には猪木殴殺計画(未遂)、馬場の2千万円手形借金問題、芳の里「銀座豪遊」接待乱脈経営、上田馬之助の裏切り(内通タレ込み)、日プロ幹部の私的公金横領疑惑、木村昭政(猪木側近)の帳簿改竄疑惑等々この事件の周辺で蠢いた疑惑の事件簿だけで1冊の本になりそうである。この事件の全貌の解明が望まれるところであろうが、すでに何人かは何も語らず一緒に鬼籍に入れて永久に封印をしてしまった関係者もいて、断片的に語られている事実から想像するしかないのが現状である。

昭和47年3月6日猪木が新日本プロレスを旗揚げ、馬場も追うようにして昭和47年10月21日全日本プロレス旗揚げ興行を行い、以降、二人は最期まで交わることなく(昭和54年8月26日オールスター戦は別)別々の道を歩むことになっていった。

二人の独立にはそれぞれの性格が反映されていて興味は尽きない。突然、独り裏切り者の烙印を押され裸同然にホッポリ出されてしまった猪木はゼロ、と言うよりは全てがマイナスからのスタートであった。猪木を慕って行動を共にしたのは山本小鉄、藤波辰巳、木戸修、北沢幹之、柴田勝久、レフリーのユセフ・トルコ、大坪清隆(飛車角)の7人であった。山本小鉄を除けばゴッチ道場の門下生のグリーン・ボーイばかりであった。猪木が最初に起こした行動が上野毛の自宅を担保に借金し、このグリーン・ボーイたちを鍛え上げるトレーニング・ジムの設営であった。この陰では倍賞美津子夫人の多大な内助の功があったのは言うまでもない。

一方の馬場。インター王座から引きずり降ろされ(返上)、孤立無援、針のムシロ、四面楚歌の中で最後の地方巡業に参加した。新潟三条市(実家)の興行(馬場がプロモーター)が含まれていたこともあるが、最初から試合優先の発想ではなかった。本当の目的は試合後に各地方の興行師(プロモーター)たちに密かに会い、これから設立する全日プロを売り込むことであった。傍目から見れば日プロが宿泊・交通費を負担し、敵方の全日プロの興行を売り歩く手助けをした恰好で滑稽ではあった。いや、狡知に長けた馬場の頭脳勝ちであろうか。兎にも角にもその用意周到の抜け目のなさに関係者は半ば感心半ば呆れ顔であった。

それを一番象徴するのが日テレとの極秘交渉である。日プロの放映を打ち切り、全日に切り替える事が既にこの時点で決まっていたのである。その強みもあって、最後の地方巡業にも平然と同行できたと見る関係者も多い。この他にもリングの設営費用、輸送ルートの確認、子飼いレスラー選別の評価分け等、「石橋の上をブルドーザーを通してから渡る」慎重居士の馬場らしい行動であった。…その後の新日、全日の歴史の流れはファンもよくご存じのことと思う。

馬場・猪木を軸とした日本プロレス史の軌跡は一先ず今回で終わりにしたいと思う。実際、猪木、馬場の去った日プロはテレビ放送も打ち切られ昭和48年(1973年)4月20日の群馬県吉井町大会「アイアン・クロー・シリーズ」を最後に興行もストップ。その後、坂口は猪木の新日へ、日プロ残党組は百田家(力道山)の敬子未亡人の仲介で馬場の全日に引きと取られ(吸収合併)消滅していったのである。

「和解」の二文字が最期まで無かった馬場と猪木との関係は、別の角度から見れば、この二人の永きに渡る確執があったからこそ、日本のプロレス界は大いに発展したとも言えるのではないだろうか? 切磋琢磨、互いが伸びて大きくなるにはライバル・好敵手の存在が不可欠であるというのが社会のセオリー・鉄則である。

馬場&猪木の初試合が1960年。馬場死去の年が1999年。実に数えで40年という永きに渡ってライバル関係を保ってきたことになる。既に日プロ3羽ガラスの内の馬場、大木の両名は鬼籍に入り、現役を退いた猪木はプロモーター&ブッカーとしてプロレス界に関与している。

平成プロレスの人気が低迷したままだ。猪木は「今のレスラーは闘うテーマを喪って何をしていいのか分かっていない」と手厳しい。馬場、猪木が活躍した時代のプロレスは、一言で言えばセメントと八百長の清濁を併せ持つ懐の深さが魅力であった。馬場を応援し猪木を応援し、時にはファン同士が激突し、緊張関係を保っていたあの時代…。

観る側であっても真剣に必死にセメントで声援を送っていた。ショッパイ試合やミエミエのクサイ試合をすれば怒り、暴動、焼き討ちといった騒動にまで発展したあの時代の物騒なプロレス。そこには今のように「みんなニコニコ仲良く一緒にお手々繋いでお遊戯」の学芸会ごっこ、所謂そういった弛緩した世界では決してなかった。そうしたファンの緊張感がレスラーを育てた部分もあった時代であった。

今思う。もしこの馬場&猪木の因縁・確執が実はアングルであったとしたなら?…これほど壮大で完璧は大仕掛けはプロレス史上始まって以来のものだ…という密かな妄想を楽しんでいる。大木金太郎、馬場正平に合掌…。

追伸
猪木プロレス、遺伝子は猪木本人が語っているように新日レスラーに個人差はあるにせよ、受け継がれているが、馬場プロレスは受け継ぐ者はいなかったし、馬場一代限りのもので引き継がれる性質のものではなかった。後生に伝えることが先人の役割、使命であるなら、猪木は立派にその任を果たしたといえよう。(了)



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テーマ : プロレス
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紹介文:門茂男主宰のユニオン元会員で、同氏には長年に渡りご交誼を賜った。ライフワークであった「ザ・プロレス365」の未発表を含む取材メモを見せて頂き、その要点を再構成した「門茂男メモ」と数名のプロレス記者から入手した情報をベースに記した昭和プロレスのテーマに迫ります。
ミスター高橋の「流血~」本で白日の下に暴かれたプロレスの実像ですが、単なる暴露もので終わるのではなく、門氏が追及したレスラーの人間性にまで同じように迫りたいという思いです。

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シンタロー

Author:シンタロー
プロレスのテレビ初観戦は小学生前の幼少期に祖父宅で見た力道山プロレス。その当時、一番印象に残っている試合は降参しないと足が折れると技の恐ろしさを足4の字固めで教えてくれたザ・デストロイヤーや、吸血鬼を連想させる噛みつきで相手を出血させるレスラーの怖さを知らしめたフレッド・ブラッシーよりも、幼心にはコミカルな妙技で笑い転げたミゼット・レスラーとのタッグマッチであった。それは祖母が馳走してくれた三ツ矢サイダーの味と共に脳裏に刻まれている。放送日の詳しいことは不明だが、昭和35年8月にミゼット・レスラー(名前は不詳)初来日の記録がある。テレビ観戦がその時期のどの試合であったかは今となっては調べようもないのが残念である。
一般総合雑誌・書籍編集者として多数のプロレスや格闘技関係の企画立案に参画し、馬場、猪木、大山倍達、木村政彦を始め多くのレスラーや格闘家を取材。プロレス界のご意見番・門茂男氏とは編集ジャーナリストの大先輩として長年に渡り公私ともども御交誼を賜った。お会いする度に未整理、未発表の「ザ・プロレス365」のラフ原稿を見せて頂き、同時に門氏が口頭で語った様々なある事件の真相や噂(裏付けが未確認)を氏の了解を得てノートにまとめ「門メモ」として所有する元ユニオン会員。

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