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井上義啓と週刊ファイト~その正体に迫る①~附記/馬場の米国武者修行時代

関西発行のタブロイド版週刊ファイト(1967年創刊)は特異な存在であった。これと並びプロレスファンが忘れられないのが名古屋発行のレジャーニューズ(名古屋タイムズ)であろう。週2回という変則の発売ながら門茂男の連載コラムが掲載され欠かせない情報源であった。この門番を担当していたのが(安田)拡了というのも知られざる事実である。

週刊ファイトの発行元は新大阪新聞社で新聞社と名が付くが実態は零細企業そのもので、専門夕刊紙を発行していたが赤字経営が続き身売り説が日常の挨拶代わりという状況下であった。ここで少し当時の大阪夕刊紙の実情に触れて置きたい。

平準化され関西特有の文化や個性が薄れる中で独特のコテコテ文化の一つの象徴がこの夕刊紙戦争であった。「大阪新聞」「大阪日日新聞」「夕刊新大阪」「関西新聞」「新関西」が鎬を削り紙面トップは各紙共暴力団・山口組と一和会の抗争関連事件や性犯罪等の三面事件ネタで他はエログロ芸能ゴシップという紙面構成で毎夜埋め尽くされていた。

週刊誌で例えるなら週刊実話、アサヒ芸能がそうした編集方針で毎週その手の記事で埋まっていたことを覚えている方もいるに違いない。その夕刊紙版だと思えば分かりが早い。

そうした抗争事件も暴対法の強化で厳しく警察の監視下に置かれ沈静化、同時に東京資本の「夕刊フジ」「日刊ゲンダイ」の進出で大阪の夕刊紙は部数激減、加えて内紛騒動や脆弱な経営基盤が響き、ついに2002年3月31 日で休刊した「大阪新聞」を最後に消滅という運命を辿った経緯がある。

週刊ファイト初代編集長として抜擢されたのが夕刊紙上がりの井上義啓であった。井上の下には時代の変遷はあるが井上譲二(フランク井上)、山本隆司(ターザン山本)、金沢克彦(GK)といった実力はともかくもプロレス記者が育った。

プロレス草創期には門茂男(後の日本プロレス・コミッション事務局長)が内外タイムズ、東京スポーツで健筆を振るい、愛弟子でもあった桜井康雄、山田隆、竹内宏介といったプロレス媒体に影響力を持つ者を輩出したのは偶然の一致ではあるが、興味深いプロレス村の一コマである。

小遣い稼ぎ程度しか期待されていなかった週刊ファイトは意外にも健闘し新大阪新聞の屋台骨を支える大黒柱にまで駆け上った。人件費もしばらくは井上一人、経費も最小限という収支バランスが飛び抜けて優れていたことに起因する。

創刊された時代(1967)はプロレス人気も上昇の途にあったことも見逃せない。全てが追い風であった。東京プロレスも破綻し猪木は日本プロレス(日プロ)に復帰。BIコンビという日本プロレス史上最強人気のタッグとして八面六臂の活躍でフル稼働。両輪として盤石の日プロ土台形成に貢献したことは歴史が物語っている。

国際プロレス(国プロ)も誕生し、日プロから冷遇されていた井上は国プロの情報や女子プロにも紙面を割き、裾野のファンを拾い集めた編集姿勢は苦肉の策とは言え功を奏した。国プロは観客動員数では日プロと比ぶべくもないがTBSで全国放送され視聴率的には20%を超える健闘を示していた。プロレス二団体時代の到来であった。組織を大きくするには好敵手、ライバルが必要というが、日プロにとってはまだライバルの肩には並ぶ存在ではなかったが、その圧倒的格差が余裕を生じさせ共存関係が形成されていった。

そしてテレビを通じプロレスファンは確実に増えていたのである。開局間もない東京12チャンネル(テレビ東京)でもアメリカの古き良きプロレスを「ファイトアワー」(1968年11月30日スタート)の題名で土曜日20時というゴールデンタイムに流したことでも理解できよう。視聴率も10%を叩き出し同局の看板番組と言われるまでに育った。その貢献には解説・田鶴浜弘、実況・杉浦滋男の名コンビの話術の妙が大きかったと思う。

このコンビで思い出すのが同じ12チャンネルで1968年12月5日から1970年3月26日まで放映された女子プロレスでそれも忘れてはならないだろう。ファビュラス・ムーラ対小畑千代の世界戦は22.4%という高視聴率を叩き出したのである。男子も女子もプロレスは常連人気番組であったのである。今思えば隔世の感を禁じ得ない。

「ファイトアワー」では馬場の武者修行時代の姿も映し出された。高下駄に田悟作タイツの上から相撲の廻しを着け、どてらを羽織り坊主頭のちょびヒゲ姿で登場する様は当時のマネージャー役であったグレート東郷の恰好と同じであった。

コールされたリング名は「ショーヘイ・ババ・ザ・モンスター」であった。リング上で四股を踏み塩を撒く馬場の姿は今となっては貴重であろう。未開の国・ニッポンから来た「化け物」のヒール人気は絶大であった。当時の米国のプロレス雑誌では「生傷男」ディック・ザ・ブルーザー、「殺人狂」キラー・コワルスキーと並び「東洋のフランケンシュタイン」馬場が世界の3大悪党として紹介されていたのである。

馬場のリングネームがモンスター(フランケンシュタインを名乗っていた時期もある)であったようにアンドレ・ザ・ジャイアントもデビュー当時のリングネームはモンスター・ロシモフと名乗っていた(このリングネームで国際プロレスに出場している)。1990年4月13日、全日のマットでこの「化け物」タッグが実現したが、それも何かの奇縁であったのだろうか。

「ヒロシマの原爆投下で放射能を浴びたジャップの子孫がモンスターに畸形してアメリカに復讐にやって来た!」といったような宣伝PRがそのヒール人気に恐怖の色を添えていた。そのピークが1964年2月に記録されている世界3大タイトル連続挑戦である。

2月5日、6日のNWA(ルー・テーズ)、2月17日のWWWF(ブルーノ・サンマルチノ)、2月28日、3月20日のWWA(フレッド・ブラッシー)でテーズとの2連戦とサンマルチノ戦との3試合のギャラは1万4千ドル(当時の換算で504万円)だったと資料に残されている。

馬場が力道山没後、真剣に米国マット界を主戦場にするか、旅行代理店をやるか逡巡していたのは理由があった。小うるさい舅だらけの日本マット界に戻れば苦労、遠慮が絶えないと不安を覚えたことは後になって的中することになる。それに加えマネージャー役であった「守銭奴」グレート東郷のギャラのピンハネも発覚。金銭面に狡く先輩面を吹かすだけの態度に嫌悪、憎悪だけだったと後に語っている。そして、どうしても帰国しなければならない理由に力道山に貸し付けた借金1万5千ドル(540万円)の回収があった――。

井上義啓は猪木信者の一人と言われている。自身もベストマッチに東京プロレス時代、1966年10月12日の対ジョニー・バレンタイン戦だとファイト紙上で語っている。猪木がアントニオ・ドライバーを場外で放ち31分56秒でリングアウト勝ちを収めた試合として記録されている。この選択には井上の深謀遠慮の気配が感じ取れる。

天の邪鬼の発露でもあるが、誰もが語る凡庸な名勝負ではなく、そしてこの事が肝要であるが、テレビマッチでもなく、その試合を知る者は会場に足を運んだファンだけという極めて限定された状況下であるという点。加えて何人のプロレス記者が駆けつけたかという点も大きな動機ではなかったか。

当時の一線級記者は東京プロレスの取材を遠慮、新人なり遊軍の二線級が現場に派遣されたと聞いている。日プロ親派記者は同幹部連中からは露骨に圧力が掛けられたようである。日頃の飲み食い接待や小遣いで飼い慣らされたズブズブ関係の記者は言ってみれば飼い犬みたいなもの。番犬の役目を果たさず飼い主に噛みつくことはギョーカイの寄生虫として許される事ではない。

船出間もない海のモノとも山のモノとも分からぬ東京プロレス。そのトップは博打狂で、経営感覚はゼロに等しい。団体運営もこれからという段階で早くも金銭トラブルの噂が流れ暗雲が垂れ込めていた。日プロから公金横領で告訴され追放された豊登プロレスを、本気で支持サポートしようとするプロレス媒体は皆無で、大半が様子見、お手並み拝見のスタンスの取り方であった。だが井上は敢えて火中の栗を拾うべく、その燎原に分け入った―。
(この稿、続く)
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テーマ : プロレス
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紹介文:門茂男主宰のユニオン元会員で、同氏には長年に渡りご交誼を賜った。ライフワークであった「ザ・プロレス365」の未発表を含む取材メモを見せて頂き、その要点を再構成した「門茂男メモ」と数名のプロレス記者から入手した情報をベースに記した昭和プロレスのテーマに迫ります。
ミスター高橋の「流血~」本で白日の下に暴かれたプロレスの実像ですが、単なる暴露もので終わるのではなく、門氏が追及したレスラーの人間性にまで同じように迫りたいという思いです。

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Author:シンタロー
プロレスのテレビ初観戦は小学生前の幼少期に祖父宅で見た力道山プロレス。その当時、一番印象に残っている試合は降参しないと足が折れると技の恐ろしさを足4の字固めで教えてくれたザ・デストロイヤーや、吸血鬼を連想させる噛みつきで相手を出血させるレスラーの怖さを知らしめたフレッド・ブラッシーよりも、幼心にはコミカルな妙技で笑い転げたミゼット・レスラーとのタッグマッチであった。それは祖母が馳走してくれた三ツ矢サイダーの味と共に脳裏に刻まれている。放送日の詳しいことは不明だが、昭和35年8月にミゼット・レスラー(名前は不詳)初来日の記録がある。テレビ観戦がその時期のどの試合であったかは今となっては調べようもないのが残念である。
一般総合雑誌・書籍編集者として多数のプロレスや格闘技関係の企画立案に参画し、馬場、猪木、大山倍達、木村政彦を始め多くのレスラーや格闘家を取材。プロレス界のご意見番・門茂男氏とは編集ジャーナリストの大先輩として長年に渡り公私ともども御交誼を賜った。お会いする度に未整理、未発表の「ザ・プロレス365」のラフ原稿を見せて頂き、同時に門氏が口頭で語った様々なある事件の真相や噂(裏付けが未確認)を氏の了解を得てノートにまとめ「門メモ」として所有する元ユニオン会員。

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