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【馬場と猪木 日本プロレス史④】最期まで確執に生き貫いた壮大なプロレス人生の最終譜(第1話)

時間を馬場、猪木ともデビュー間もない頃に巻き戻そう。先の馬場のデビュー相手だった田中米太郎に力道山が呟いたように、馬場は地方巡業に限らず、どの会場でも耳目を集め、黒山の人だかりであった。その好奇な目は段々とエスカレートし、試合云々よりも「化け物」に寄せる興味、関心と変わらぬものであった。

プロレス新聞も馬場を読者の好奇心を擽るような針小棒大、中には明らかにデッチ上げの与太記事(缶詰を歯で空ける、生きた鶏を毟って喰らう、飯は茶碗代わりにオヒツで喰らう等)もあり、それを読んだ力道山は「ひでェー記事だ」と言いつつも、顔はほくそ笑んでいたという。その顔は格闘家の顔ではなく、冷徹な経営者の顔であった。馬場のお化け度が増すのに比例するかのように観客動員数も増えていったのである。 

出世コースを順調に歩む馬場はこの頃になると、すでに他の3羽ガラスに2馬身も3馬身もりードする恰好で、幹部候補生としてアメリカ武者修行の旅も決まり、力道山の付き人だった猪木、万年前座下積み生活の大木は地団駄を踏んで悔しがり、嫉妬心で怒り狂っていた。

馬場、猪木、大木(マンモス鈴木はアメリカで女性問題を起こし脱落)の3人に淀む確執はデビュー戦から始まっていたと言ってもいい。セメントで潰しあった猪木と大木、いきなり片八百長で勝ちを収めた馬場との立場の違い。それは馬場だけに許された特権待遇がこれからの猪木、大木に目の見えぬ亀裂が生じていったわけである。

それは依怙贔屓に対する強烈なジェラシーと置き換えてもいい。馬場の商品価値の大きさをきっちりと知っていたのは力道山だけだったのである。ガンガン練習を積み体躯を作り強くなればマネーは後から付いてくるものという17歳らしい考え方は、フツーの格闘技であれば当然であったろうがプロレスの世界は違ったのである。弱くても客を集められるレスラーは出世もし、チャンピオンにだってなれる…このことを知るにはまだ時間が足りなかった。

猪木は力道山存命中に果たせなかった米国武者修行の旅を馬場に遅れること2年8ヶ月、猪木のボスである豊登と共に昭和39年3月9日初渡米。この豊登渡米には大きな目的があった。それは日本プロレスから甘い汁を吸い放題だった外人招聘窓口役だったグレート東郷を力道山死去を境に絶縁し、沖識名ルートからロサンジェルス地区のプロモーター・ミスターモトと招聘交渉することであった。

このグレート東郷との絶縁には力道山への貸付金だと称し、東郷は証文なしの5万ドル(今の貨幣価値で1億8千万円)の返金を要求。守銭奴ぶりを熟知する日プロ幹部たちは無用のトラブルを避ける意味からも「今後一切日プロとは関係を持たない」という誓約書に判を捺させ、手切れ金としてこのビッグマネーを支払った。

米国でのグレート東郷のようなマネージャー的存在がいなかった猪木は、やがてフリーのヒロ・マツダに出会う。元々、力道山の相撲の封建的因習が残る日本プロレスが嫌で飛び出した男であった。ジュニアヘビー級と軽かったがスピィーディーなケレン味のないファイト・スタイルは猪木も大いに勉強になったという。

猪木&マツダのコンビはテネシー州の南部タイトルやNWA世界タッグ(テネシー地区)の王座に着いている。コンビネーションの良さは南米ブラジル育ちの猪木と、日本人ながらアメリカに居を構えるマツダの大陸的合理性との相性が合ったのかも知れない。

その最中、事件は起こった。昭和41年3月20に勃発したのが「太平洋の略奪」東京プロレスの旗揚げであった。ハワイで馬場や吉村と落ち合うために米国本土より飛来して来た猪木を待ち構えていた豊登が略奪した事件である。この時、豊登が猪木を口説き落としたセリフが「日本プロレスに戻ってもオマエは一生馬場の肥やしになるだけだ!」と、猪木の馬場への異常とも言えるライバル闘争心に煽るように火を付けた文言だったと言われている。

もう一つの理由がファイトマネーの算出方法であった。日本人レスラーは1試合いくらの計算だが、外国人レスラーは週給払いが当時の決まりであった。ここで猪木は週給報酬を提示されたという。つまりは馬場の助っ人、よそ者扱いという日プロ幹部の姿勢をそう感じ取ったからと、後に猪木は語っている。

そして東京プロレスの命運を握る「若獅子」アントニオ猪木が単身米国に乗り込み、交渉してきたのがセメントの容赦のない打撃スタイルで、レスラー仲間からも敬遠されていた「毒針」ジョニー・バレンタインであった―。



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紹介文:門茂男主宰のユニオン元会員で、同氏には長年に渡りご交誼を賜った。ライフワークであった「ザ・プロレス365」の未発表を含む取材メモを見せて頂き、その要点を再構成した「門茂男メモ」と数名のプロレス記者から入手した情報をベースに記した昭和プロレスのテーマに迫ります。
ミスター高橋の「流血~」本で白日の下に暴かれたプロレスの実像ですが、単なる暴露もので終わるのではなく、門氏が追及したレスラーの人間性にまで同じように迫りたいという思いです。

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シンタロー

Author:シンタロー
プロレスのテレビ初観戦は小学生前の幼少期に祖父宅で見た力道山プロレス。その当時、一番印象に残っている試合は降参しないと足が折れると技の恐ろしさを足4の字固めで教えてくれたザ・デストロイヤーや、吸血鬼を連想させる噛みつきで相手を出血させるレスラーの怖さを知らしめたフレッド・ブラッシーよりも、幼心にはコミカルな妙技で笑い転げたミゼット・レスラーとのタッグマッチであった。それは祖母が馳走してくれた三ツ矢サイダーの味と共に脳裏に刻まれている。放送日の詳しいことは不明だが、昭和35年8月にミゼット・レスラー(名前は不詳)初来日の記録がある。テレビ観戦がその時期のどの試合であったかは今となっては調べようもないのが残念である。
一般総合雑誌・書籍編集者として多数のプロレスや格闘技関係の企画立案に参画し、馬場、猪木、大山倍達、木村政彦を始め多くのレスラーや格闘家を取材。プロレス界のご意見番・門茂男氏とは編集ジャーナリストの大先輩として長年に渡り公私ともども御交誼を賜った。お会いする度に未整理、未発表の「ザ・プロレス365」のラフ原稿を見せて頂き、同時に門氏が口頭で語った様々なある事件の真相や噂(裏付けが未確認)を氏の了解を得てノートにまとめ「門メモ」として所有する元ユニオン会員。

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