今回は前々回のブログで取り上げた「馬場NWAタイトル獲得」で資料を精査する中でサム・マソニックが来日時にオフレコで語っていたNWA非公式ルールにスポットを当て、その増補改訂版をお送りしたいと思う。更に日頃のご愛顧に応え、少し時期がずれた感は否めないが夏休みプレゼントということで無料でお届けしよう。
NWAの会長を2度(1950~1960、1963~1975)務め日本にも多大な影響力を誇示したのがサム・マソニックであった。セントルイス地区の興行師で主戦場はキール・オーデトリアム。主な傘下のレスラーはルー・テーズ、ジン・キニスキー、ハーリー・レイス、リック・フレアー、テッド・デビアス等であった。
日本プロレスの招待で何度か夫婦でVIP待遇で来日している。テレビ中継にも顔を出し一番印象強いのは1971年(昭和46年)3月26日、ロサンゼルスで猪木がUN(ユナイテッドナショナル)王座を獲得した場面ではないだろうか。
昭和44年(1969年)にプロレス中継に参入したNET(テレビ朝日)が「猪木には馬場への対抗上、シングルタイトルが不可欠」というNET上層部の絶対指令を受けた遠藤幸吉がミスター・モト(ロス在住の日系ブッカー)と計らい急造したのがこのUNタイトルであった。パシフィック・コースト・ヘビー級タイトルの(ベルト)スペアがあることに目を付け、そのネームプレート部分だけを作り替えてデッチ上げたのがUNベルトの正体であった。
インチキタイトルだけにその権威付けを強く求めていたNETはロスでの奪取試合(王者はジョン・トロス)には、テレビ中継でタイトルマッチ宣言と奪取したUNベルトを猪木に渡すシーンでサム・マソニックNWA会長を登場させ、もっともらしいアングルを提供し日本のファンに権威を印象付けたのである。この時の旅費や謝礼は当然、NET側が負担しUNタイトルの裏金は2万ドル(当時のレートで720万円)であった。
この裏事情を知ればその後のUNタイトルの帰属を巡り水面下でNET(テレビ朝日)と日本テレビが熾烈なタイトル所有権争奪戦を起こした事は理解できよう。詳しくは別稿「呪われたUNタイトル」をご覧になって欲しいが、要は「タダ取りしやがって! カネを出したのは我々(テレ朝)だ! 当然、ベルトの所有権はこっちにある! だから返せ!」と日テレに文句をいったわけである。
話を戻そう。
日本にも多大な足跡を残したそのサム・マソニックが来日時にオフレコを条件に何度か「NWAルール」の裏事情を語っていた。要点を整理し紹介しよう。
NWA王者の役回りは傘下の会員(プロモーター)が行う興行を廻りサポート(タイトルマッチ)することである。プロモーターが推す地元選出の人気レスラーとの対戦である以上、実力差が分かってしまうような試合(セメント)は厳禁で、相手レスラーに花を持たせつつ苦戦しながらの幸勝や引き分け、反則負け、両者リングアウト等などで防衛を重ねることであった。
観客にはチャンピオンの強さを見せることではなく挑戦者(地元ヒーロー)の強さ、魅力を引き出すことである。試合の主役は地元のスターレスラーでありそれを裏でプロデュースする陰の主役がチャンピオンの役割。結果は紙一重の差であったと観客に錯覚させるのが王者の器量の深さであろう。当然、地元選手の人気や価値を落とすような試合はタブーとされた。
ご当地レスラーの善戦ぶり(まさに鶴田が想起される話だ)を巧みに演出し「今回は惜しかったが次回戦えばチャンピオンになれるのでは?」という期待を持たせることが大切で、次回興行(タイトルマッチ)に足を運ばせることであった。そうした試合が行える力量を持ったレスラーがチャンピオンの必須条件であった。
各地の興行師やブッカーが考案する筋書きには稚拙なモノも多く、チャンピオンが毎回、そうしたブッカーが用意するシナリオを覚えるのは面倒である。1週間に3回、4回のタイトルマッチではその負担も大きい。そこで予めチャンピオン側が基本となる数パターンのシナリオが用意されており、それをブッカーが選ぶことが多かったようだ。
当時の米国でのテレビ中継はシステムが日本とでは大きく異なっていた。日本ではテレビ局が中継料を団体に払い放映する。国際プロレス(東京12チャンネル)を除けば全国中継であった。しかし米国ではプロモーターが宣伝用にテレビ局の放映帯を買い取りPR用のテレビマッチを流すのが中心で放映エリアも地元地区だけであった。
このことは例えば昨日セントルイスで演じたシナリオを今日フロリダの試合に使用しても誰も違和感や不満を覚えることはないということである。つまり安易な同じ内容のインチキ試合が何度も堂々と続けられ、それが通用していた良き時代でもあったわけである。
両者リングアウトの引き分けも60分フルタイムの引き分けも週給である以上、ギャラは同じだが、そこにボーナスを付けるかどうかでプロモーターへの評価が変わるのは当然であろう。ケチな興行師の試合では5分で両者リングアウトなんてこともあり得るわけである。
昭和44年12月2日(猪木)、3日(馬場)と連日60分フルタイムの引き分け試合を演じたドリー・ファンク・ジュニア。筆者も猪木戦を名勝負として紹介しているが猪木自身も生涯でのベストマッチと認めている。シナリオはユセフ・トルコが作成したがマネージャー役で同行していたシニア(実父)も試合後にトルコに握手を求めて来たと言われている。シナリオのフェイクを超えるプロレスのマジックが生起した一戦であった。
考えて見れば猪木に賞賛の声が鳴り響いたがそれを支えたのはジュニアであった。2試合連続の60分フルタイム試合を演じられたタフネス振り。当然、日本プロレスの厚遇(夫人や実父を招待し日本観光旅行)1万ドルのギャラ(当時のレートで360万円(週給7試合分だから1試合は約51万)、当時昭和44年度の国家公務員大卒給与27,609円、平成23年度大卒給与266,308円≒9,64倍)現在の貨幣価値に換算すれば3470万円(週給の7試合分、1試合495万円)というビッグマネーを手にすればそのギャラに応えるべく2試合連続60分フルタイム試合を日本のファンに提供したのも納得がいく。
全米各地(時には日本にも)飛び回るだけに移動だけでも大変な労力である。しかし移動の飛行機はエコノミー(ビンボー席)で、クルマ移動でも運転手を雇うわけではない。1日で800㎞を自らステアリングを握り移動し会場入りすることもあったという。宿泊は会場近くの安モーテル。経費は原則自己負担であるからレスラー稼業は楽じゃない。
ハーリー・レイスが毎回、移動の度にベルトが空港の金属探知機に引っかかり不審者として別室で厳重なチェックを受けた話は暴露本でも紹介されていたのでご存じの方も多いだろう。NWA世界チャンピオンといってもこれが現実でマイナーショー競技の悲哀であろう。もしファーストクラスで移動なら税関職員の応対も違っていたに違いない。
その点、日本遠征は特別で交通費・宿泊費は団体持ち。時には飲み食いだけでなく、くノ一(女=ソープや芸者)接待まであった。馬場はファーストクラス、グリーン車、都市型近代ホテル(旅館)を用意。日本選手のギャラを削っても外人選手へ厚遇を尽くした。ギャラには税金が引かれるがその納税分も馬場は負担していた。馬場が外人レスラーたちに支持された最大の要因はこのカネ払いの良さだったわけである。
もっともこの日米賃金格差の不満が鬱積して後の天龍退団、鶴田の独立騒動、三沢たちの賃上げストライキ騒動に連なっていくのである。「シナリオ通りに試合をしていれば怪我などすることはあり得ない話」として選手たちの公傷制度を認めなかったところに馬場の冷たい人間性が分かるエピソードではある。セメント嫌い、恐怖症の一端が窺える話でもある。
確かに日本に来た歴代のNWAチャンピオンたちの試合内容を具に思い起こせば、出来不出来は別にしてもその筋書きや結果は全て当てはまると言える。日本選手は怪我をすれば無報酬が恐くてタイトルマッチでも退屈でアクビの出る無気力試合が多かった理由の一つがここにあったわけである。
会員プロモーターの利益を上げることがチャンピオンに課せられた義務でり、観客動員数が落ち、傘下のプロモーターたちから不満の声が大きくなると「王者交代」が主だった有力メンバーの間で討議され決定されたという。人気が無くなれば次なる選手に王座はチェンジ。これこそ、疑似格闘技エンターテイメントショーの大原則であろう。
そしてサム・マソニック、ジムクロケット・ジュニア、ドリー・ファンク・シニアといった有力プロモーターの傘下レスラーでなければ実力があっても王者には成れなかったのが「NWA裏ルール」の基本であった。
テーマ : プロレス
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